ポストモダンとは、「モダン後」という意味である。モダンとは近代。近代後とは、つまり現代を意味する。ポストモダニズムというのは、モダニズム(近代主義)に対する反動としての現代である。
「われ思う、ゆえに、われあり」と言ったデカルト以降、哲学思想は「知る私」に関心の中心を置く主観主義の時代となった。それ以前の哲学の主題は神の存在を問う存在論だったが、デカルト以降、人間中心の主観主義となった。
デカルトは『方法序説』冒頭にあるように、万人には理性が共通して与えられていて、その理性を適切に用いるならば、普遍的な真理を知ることができると信じていた。17世紀のデカルト以降、18世紀の啓蒙主義時代も、19世紀の進歩主義の時代も、モダニズムにおいては、理性に対する信頼と普遍的な真理があるという確信があった。19世紀は西洋文明は帝国主義によって世界中に拡張されて行き、進歩発展していくと信じられた。これがモダニズムの時代の空気である。
だが、先の二度の世界大戦によって人間の理性に対する失望が生じた。理性は核兵器までも作りだして人類と地球を滅ぼしてしまうのではなかろうかという疑念を、人間は抱くようになった。理性に対する信頼が崩れたのである。また、世界が拡張していった結果、世界には多くの民族が住んでおり、それぞれの民族によってさまざまな宗教があり信念体系を持っていることを文化人類学者たちが見出すようになった。普遍的真理などないと考える人々が増えて来た。
こうしてデカルト以来の主観主義は相変わらずであるが、理性に対する信頼と、理性によって普遍的真理に到達できるという信念が崩れた。真理は相対的なものであり、人それぞれの主観によって真理はちがうというポストモダンの時代である。主観主義、相対主義・多元主義となる。
ポストモダニズムの聖書解釈においては、聖書記者が何を言っているのかということはどうでもよい。読者の主観の中で意味が形成されるという。「この聖書解釈こそ正しい」と主張するのは、モダニズムに属する考え方、子どもっぽい考え方であるとされ、「あなたの聖書解釈はあなたの聖書解釈。わたしの聖書解釈はわたしの聖書解釈。みんな違ってみんないい。」と、お互いの立場の違いをわきまえるのが、大人の考え方であり紳士的であるとされる。だが相対主義者は、「これだけが真理である」という主張を絶対的に否定する。
このような時代の風潮を「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と仰る主イエスはどのようにご覧になっているのだろうか。