昨日の主日礼拝はヨハネ福音書6章の五千人給食のところ。
「過越しが近づいて」とあることが示すように、この奇跡とその後のヨハネ6章53節から58節「人の子の肉を食べ、人の子の血を飲まない者は・・・・」というイエスのことばは聖餐と関連して記されている。古代教会以来、聖餐式においてこの個所も用いられてきた。つまり、聖餐において起こることはキリストのからだと血、復活のいのちにあずかるということである、ということである。
1コリント11章23-26節では、聖餐に関する当該の箇所は「主の死を告げ知らせるのである」と結ばれるように、聖餐は主の死を記念するためであり、共観福音書は「これはわたしのからだだ」と言われたことを文字通り取るべきだとしたのがルターであり、比喩的に取るべきだとしたのがツヴィングリだった。カルヴァンはヨハネ6章から復活の主のからだと血に今あずかるのだとする。宗教改革時代に、多くの議論がなされ、マーブルグ会議は物別れになってしまったことは有名である。
だが、私の感想は、それぞれが主な根拠とする聖書箇所が違っていたのではないか、ということである。ツヴィングリは1コリント11章、ルターは共観福音書、カルヴァンはヨハネ6章。聖書は、聖餐において、主の死を覚え、かつ、復活のいのちをともに経験せよと言っていると解するのが良いのだと思う。