これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランは父テラに先立って、親族の地であるカルデア人のウルで死んだ。アブラムとナホルは妻を迎えた。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父、またイスカの父であった。サライは不妊の女で、彼女には子がいなかった。
テラは、その息子アブラムと、ハランの子である孫のロトと、息子アブラムの妻である嫁のサライを伴い、カナンの地に行くために、一緒にカルデア人のウルを出発した。しかし、ハランまで来ると、彼らはそこに住んだ。テラの生涯は二百五年であった。テラはハランで死んだ。(創世記11章27-32節)
創世記11章後半からアブラム(後のアブラハム)の生涯の物語が始まる。アブラムが生を享けたのはペルシャ湾に臨む、当時最大の都市国家ウルであった。ウルは紀元前3000年にはすでに第一王朝が始まっており、アブラムがウルで過ごした時代は第三王朝だった。人口は六万五千人、治水施設があり、宮殿、個人の家々からは粘土板に楔型文字で記された経済および法律文書が発見されている。町全体はレンガ造りの高さ8メートル幅25メートルの堅固な城壁に囲まれていた。町の中央にはジッグラトがそびえ、その頂には月の女神を祀った神殿があり、父テラはほかのウルの住民たちとともに、この女神を崇拝していた(ヨシュア24:2)。だが、アブラムは先祖アダム、セツ、ノア、セム以来の天地万物の創造主のみを礼拝していた。
ところが、ウル第三王朝はエラム人に包囲・攻撃されるようになり、2004年にはついに滅亡してしまったと歴史は語っている。それはちょうどアブラムがウルに過ごした時代のことである。テラの家族に関する創世記11章末尾の記述には、息子ハランは家族を遺して、早く死んでしまったと記されている。想像をたくましくすれば、テラはウルとエラム人との戦闘の中でいのちを落としたのかもしれない。
テラ一族がウルを去ったのは、ウル滅亡の前なのか、それともウル滅亡直後なのか、知る由もない。が、息子を失った族長テラは、危険なウルにとどまり続けるべきなのか、それとも一族を連れてウルを去るべきなのかと心が揺れていたことだろう。ステパノによれば、アブラムがまだメソポタミア、ウルにいた時、アブラムに主なる神からこの地を去って主が示す地カナンへ行けということばがあった(使徒7:2,3)。アブラムからの進言を受けて、テラは決断して一族を連れてこのウルの地を旅立ったのである。
ウルからユーフラテス川をさかのぼって、およそ千キロの源流域に来るとハランという大きな都市があった。考古学者の発見によれば、ハランにはテラの拝んできた月の女神の神殿もあった。ハランに入ってテラは思った。「もうここでいい。アブラムはああ言うが、主なる神が示すカナンとやらまで行く必要はあるまい。」こうして一族はハランに住み着くことになる。
父の死後、アブラムはもう一度、主の召しのことばを聞くことになる。