教会に関するある文章を読んで触発されて思い出したことがあるので、ここにメモしてみます。
むかし牧会学を教えてくださった堀越暢治先生が、四日市で伝道をして、ある程度の群れになったとき、教会の中の人間関係のもつれで先生は心臓だか胃だかが悪くなってしまったそうです。そんな中、「教会の中に愛についての大きな誤解がある」と気が付いて、「愛の再検討」をして、それを共有したそうです。
聖書的な教会における愛はこちらから相手に一方的に注ぎ見返りを求めない一方通行のアガペーの愛です。ところが、エロースの愛は相手に注げば見かえりが当然あると考えるブーメラン的愛=利己的愛ですから、返って来なければ怒りや憎しみに変化する。表面上「愛」ということばで共通しているので混乱します。このことを複数の矢印で描いて表現されました。ブーメラン利己的愛の図はぐちゃぐちゃに混乱した図になりますが、アガペーの図はすっきりしています。
教会の一人一人が、聖書でいう愛を学んだときから、四日市の教会のゴチャゴチャは解決して、前に向かって進んでいったのだ、と堀越先生が話していらっしゃいました。
ほんとうの愛について学ぶと、牧師夫人がああだ、あの役員がこうだ、牧師がなんだ、あの信徒がああだこうだ、などと言ったりして平気でいられなくなると思います。そういうふうに思ったり言ったりしている自分自身が神の前に恥ずべきものだというふうに、牧師をはじめ一人一人が気づけば、多くのことは問題にならないと思います。