今日の午前中、Y姉の納骨式を市内の緑の中にある教会墓地で行いました。夫君、娘さん二人と、義理の息子さん、お孫さんと妻と私での式でした。イエス様の十字架と復活のゆえに、聖なる神の前で罪がすべてゆるされ、天の御国の3つの約束をいただいていることのうれしさを味わいました。望みのない生き方をしている方たちに、キリストの福音をもっと伝えていきたいと思います。
新約聖書 黙示録22章1‐5節
1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。3 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、4 御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。
1 いのちと光の世界
(1)いのちの水の川
日本人の多くが死後の世界の川として思い浮かべるのは「三途の川」でしょう。賽の河原では水子たちが、石を積んでいると鬼たちがそれを壊しに来る。それはどこまでも寂しく寒々しいイメージの川です。 けれども、イエス様を信じる者が住む天の御国に流れているのは「いのちの水の川」です。その水は水晶のように透き通っています。命の水の川は「神と子羊の御座」から流れ出ているからです。子羊とはイエス様を象徴する名前です。いのちの水は父なる神様とイエス様のところから流れ出ている聖霊を象徴するものですから、けがれも一切ない、きよらかで美しい川なのです。
いのちの川の両側には「いのち木」が並木をなして茂っていて、いのちの木の実がみのっています。まさに、天の御国とは、いのちに溢れた世界です。
(2)光輝く世界
また仏教が教えるあの世は、冥土つまり暗い世界です。しかし、イエス様を信じる者が住まう天の御国は光り輝く世界です。「 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。」イエス様を信じる者は、いのちあふれ、光り輝く国に住むことができるのです。
2 神様との親しい交わり
イエス様を信じて天に召された者は、神様との親しい愛の交わりの中に生きることができます。そのことが4節に表現されています。「神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。」
アダム以来、人は神の背いて以来、神の御顔を避けるようになったと聖書にあります。それは、人には神様に顔向けできな罪があるからです。罪があると恐ろしくて聖なる神に近づくことも、お顔を見ることができません。けれども、イエス様が私の罪のために十字架にかかってくださったので、イエス様を信じる人は、罪をすべて帳消しにされて、天の御国で神様のお顔を見ることができるのです。
「額に神様の名が記されている」というのは、どういう意味でしょう?大事なものには名前を書くでしょう、そのように、神様は「あなたはわたしの大事な宝だよ」とおっしゃるということです。
3 天国の仕事
では、イエス様を信じた者の天国での仕事とはなんでしょう。天国というの、何もせず一日中ボーっとしている場所ではありません。Y姉は、地上ではご主人の建具屋さんの働きを助け、教会で何か行事で必要があると家族で手作業をしてくださいました。イエス様は「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたはわずかなものに忠実だったから、わたしはあなたにより多くのものを任せよう」とおっしゃいました。地上では、私たちの奉仕には健康上のことなどさまざまな限界がありますが、天国では思う存分に奉仕することができます。二つのことが記されています。
一つは5節。「神のしもべたちは神に仕え」るということです。
もう一つは、「彼らは世々限りなく王として治める。」ということです。
「神のしもべ」であり、かつ、「王」として、天国では奉仕するのです。しもべとしての謙遜をもって、王として自主的に喜んでする奉仕です。