パリ・オリンピックの開会式におけるパフォーマンスをニュースで見ました。今はやりの「多様性」を金科玉条にして、自由を暴走させたらどれほど醜悪なものとなるかを具体化して世界に見せたということでは意義があったということなのだろうか。
私は大学の卒論をパスカルで書いたので、フランス贔屓な感情もあるのだが、今回のパフォーマンスを見ると、フランス革命における無神論的理性が聖俗二つの伝統的権威を破壊したら、その結末がいかに悲惨なものとなったかを思い出さないではいられない。
<追記>
少し説明を加えます。開会式にともなうパフォーマンス(特にギロチンにかけられたマリー・アントワネットの生首と飛び散る血しぶきと、両性具有風ドラッグクィーンによる最後の晩餐の場面パロディという冒涜)について、批判的コメントがフランスの内外から多く寄せられている。これに対して、主催者側は、「これは多様性の表現であり、パリには表現の自由があるのだ」と主張しているという。神なき世界に真善美の物差しは存在しないから、その自由とは単純に好き勝手という意味の自由であり、そこに出現する多様性とは混乱と分裂である。
フランス革命に現れた無神論的理性が、どうして無軌道な多様性につながっていくのか? 単純なことである。創造主がいないということは、真・善・美について普遍的ルールなど無いということである。結局は、すべて各人の主観・各自の好みなので、ある人たちにとってどんなに醜悪だろうと、誰も批判できないというのが多様性=分裂性の世界なのである。「あなたの真善美はあなたの真善美、でも、私の真善美は私の真善美。普遍的な真善美なんて存在しないんだよ。」ということ。