苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

頭であるキリストのもとに

10**,時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。(新改訳2017 エペソ1:10)

  万物がキリストにあって、「一つに集められる」とはどういうことか?この語は、ἀνακεφαλαιώσασθαιとあるように、語の中に「頭」を意味するケファレーという語が入っている。これは、同じ1章の末尾、21節から23節「21**,すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。22**,また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。23**,教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」へとつながっている。注目すべきは、22節のアンダーラインを引いた部分「すべてのものの上に立つかしら」の「かしら(ケファレー)」である。「一つに集められる」という訳語では不十分な感じがする。単に集めるのではなく、キリストをかしらとして、それぞれの役割が与えられ、配置され、全体として統合されるのである。あらゆる被造物が、キリストをかしらとして統合されて、神の王国が完成するというのである。
 だから、ここはむしろ、「一切がキリストをかしらとしてまとめられます」と訳していただきたかったところ。新共同訳はその意味で「あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。」と訳している。

 

<同日追記>語源学的にἀνακεφαλαιόωを調べると、ケファレーが含まれているように見えるが、実は別の語源だという。だが、ここで肝心なことは、語源の話ではなく、使徒パウロが22節のケファレーへのつながりを意識して、10節を語っていることなのである。