苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「言論の自由」の意味を知らない総理大臣

 どこかの国の総理大臣が他党を侮辱するひどい発言をして、それを取り消すように求められたところ、自分には言論の自由があるとのたまわった。彼は言論の自由というものが何もわかっていないようである。

 そもそも、自由とは、「~からの自由」というふうに、束縛する者を定義してこそ、内実あるものとなる。近代社会における「言論の自由」「思想信条の自由」「表現の自由」などといった基本的人権としての自由は、すべて「国家権力の束縛からの国民の自由」を意味している。絶対王政に対する市民革命は、これらの自由を獲得するための戦いであった。なんでそんな戦いをする必要があったかといえば、国家権力は警察権を持っているから、その行使に制限をかけなければ、国民は安心して生活できないからである。

 「言論の自由」とは、「国家権力の束縛から、国民は言論に関して自由である」という意味である。つまり裏返せば、「放送局が何を報道しようと、国家権力は制限してはならない」というのが言論の自由の中身である。「言論の自由」とは、国家権力者自身は、言論の自由を制限されるということなのである。国家権力者は、放送局に圧力をかけるような発言をしてはならないのである。こんなことは常識中の常識である。

 一国の首相が、言論の自由がなんであるかということについてすらご存知ないとは、情けなく危険な状況である。