きのうの主日朝礼拝は、神学生がメッセージをとりついでくださいました。4週間前から準備してきて、最初は聖書研究と説教とのちがいがわからず苦労していましたが、苦労して祈った甲斐あって、最終的にはしっかりとした神のみことばをみなさんに届けることができ、私自身も受け取ることができました。アウトラインを書いてみます。
5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
5:2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
5:3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。
5:5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
5:6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
5:7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
5:8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
5:9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。
ヨハネ福音書5章1−9節
エルサレムのベテスダの池、その名は「あわれみの家」である。多くの病人たちが、効能あらたかな間欠泉が噴き出すこの池の周りに臥せっていた。間欠泉が噴き出した直後に泉にひたるならば病気が治るからである。ところが、ここに38年間も病に臥せっていた人がいた。38年間といえば現代人で言えば人生の半分。古代人にしてみれば人生の大半の年月である。彼は「いったい自分は何のために生まれてきたのか?」と思わないではいられなかったであろう。
また、彼は孤独であった。重病人がなぜこんなに池の周りにいたのかといえば、間欠泉の水が動くと、軽症の人が我先にと池に入ってしまい、重症者は取り残されてしまうからである。先ほどまで親し気に話していた人が、池の水が動くと我先にと飛び込んでしまう。ベテスダの池は、弱肉強食の社会の縮図であった。
長く続く病気と孤独にさいなまれて、彼の肉体と精神とはほとんど死んだようになっていた。ところが、そこに主イエスが来られて、短いことばを彼に言った。「起きて、床を取り上げて、歩け」。主のことばは「光あれ」といって光があった、創造の力をもつことばです。無から万物を、死からいのちを呼び出されたことばである。今、この魂も肉体も瀕死の人にいのちを与えたのは、主の短いことば「起きて、床を取り上げて、歩け」だった。