苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「王である祭司キリストー贖いの二側面」

福音主義神学会誌に出す論文ができあがりました。タイトルは最終的に、「王である祭司キリストー贖いの二側面」としました。校正に携わってくださった若手のH牧師というまだお目にかかったことのない方が、たいへん緻密な仕事をしてくださって、感心しました。 もと付けていた題名「あれも、これもー贖罪と義認をめぐって」はキェルケゴールの「あれか、これか」をちょっともじったものだったんですが、どうも誤解をまねく恐れもあるなあと思って、やめました。
こんなアウトラインです。

「王である祭司キリストー贖いの二側面」

1.義認の前提としての贖いの教理
(1)対悪魔勝利説
(2)満足説・刑罰代理説
(3)主観説
2.義認についての理解
(1)刑罰代理説と義認
(2)E.P.サンダースとN.T.ライトの「義認」解釈
3.「神の計画全体」の中で
(1)パウロ書簡
(2)聖書全巻を挙げて
結論 あれも、これも

 こんな大風呂敷なので限られた字数の中に収めるのに相当無理がありました。でも、今回、キリストが、十字架と復活によって、祭司として私たちの罪の償いをし、王として悪魔に勝利されたという二つの面が創世記から黙示録まで一貫して流れていることにはっきりと気づかされて、自分として収穫のある勉強となりました。
 近代の敬虔主義的な流れの中では、キリストの祭司性に強調点があり、その辺の物足りなさに対して、近年(といってもニ三十年前から)ライトは、「福音とはキリストは王であるという宣言です」と主張し、したがって、救いは王なるキリストの臣民になることだというのには確かに一理あります。ですが、キリストが祭司として贖罪の犠牲となられたこともまた、明白に聖書的真理です。そんなわけで、いずれも重要な真理で、「あれも、これも」です。キリストの祭司職と王職は、伝道と社会的責任、あるいは、宣教命令と文化命令と直結しています。
 で、ルターとカルヴァンを振り返ってみたら、両者とも、キリストが王である祭司であることを、しっかりと聖書から読み取って表現していることに気づかされ、脱帽という感じです。