苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

視点をもつことの有用性と限界

 人はどうも世界観・統一的視点というものを持ちたいらしい。そのためには、ある視点をもつことが必要であるが、世界を造られたのは神であるから、本来的には、神以外にふさわしい視点は存在しない。しかし、人は神を認めたくないので、神以外のものすなわち被造物のうちの一側面にすべてを還元して説明しつくせるというふうに主張しがちである。それがもろもろのナントカ主義の正体である。ヘルマン・ドーイウエルトがこのように語っていた。
 たとえば、その昔ヘーゲル主義者たちはなんでもかんでも正反合で説明して満足していた。マルクス主義が流行したころは、「下部構造(経済)が上部構造(道徳・宗教・芸術)を規定する」などということが言われた。あるいは、十数年前には「あの人はAC(アダルトチルドレン)だ」という風なことが流行った。その観点から、人の性格傾向をみな説明できるような気がしたのである。あるいは、悪霊問題に少し経験をもった伝道者が、故障したカギに向かって「悪霊よ出て行け」などという馬鹿らしいことも聞いたことがある。人間には、マスターキーを持ちたいという衝動がある。
 神学や聖書学においても、そういうことはありがちで、やはり時代によってナントカ学派というのが登場するのはそのせいである。ヘーゲル哲学の影響を色濃く受けたテュービンゲン学派は、新約聖書成立を聖書本文の証言以上に「正反合」の弁証法的観点を重んじて新約聖書各巻の成立年代推定するなどという無茶なことをしていた。旧約聖書については宗教進化論を当てはめようとするというこれまた無茶なことをしていた。
 今は「物語」として聖書を見るということが流行しているようで、猫も杓子も「物語」ということばを口にしているが、しばらくすれば、その限界も見えてくるだろう。また、ユダヤ黙示文学の視点から聖書を読もうということが流行しているようである。黙示文学の視点で、福音書パウロも全部説明できるという人が出てくるだろう。だが、その視点から見えてくることもあるだろうが、何年かすれば、きっと「あれは言い過ぎだったねえ」ということになる。
 新しい視点を持つと、その視点から今まで見えなかった風景が見えると同時に、見えなくなる景色もあることを忘れてはいけない。視点の有用性とその限界をわきまえることが大切である。