苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

預言は預言者の意図を超える

11:49 しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。 11:50 ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」
11:51 ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、 11:52 また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。
ヨハネ福音書11:49−52)

 預言とは神から預かった言葉であり、預言者とはその神から預かったことばを語るように神に立てられた人である。この箇所からすると、預言者は必ずしも自分が語ることばの意味を理解しているわけではないということである。預言された内容は、預言者の意図を超えている。
 とすると、聖書釈義の最終的目標は、言語・文化・歴史的背景との関係性を考慮して、執筆者に意図にたどりつくことではなく、その向こうの聖霊の意図に到達することであるということである。もちろん執筆者の意図がどうでもよいというのではない。非常に重要だけれど、そこが終着点ではないということである。どうすればよいか?
 第一は、記者を動かして、そのみことばを書かせられた聖霊が、読者の心を照らしてくださるようにと祈る。
 第二は、聖霊は聖書全体の啓示者でいらっしゃるゆえ、当該箇所が語っていることを、聖書全体の真理体系の中で位置づけ、また、より明瞭に語っている箇所と照合して読むことである。