苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神の国にはいる者

マルコ10:13−31
2017年3月5日 苫小牧朝礼拝

 本日お読みしたところには、最初に神の国に入る者、二番目に神の国に入れなかった人の姿が出てきて、最後にイエス様が神の国にはいる者とはどんな者であるかが語られます。最初に出てきた神の国にふさわしい者とは子どものように神の国を受け入れる者であり、次に出てきた神の国にふさわしくない者とは金持ちで品行方正な青年でした。
 私たちは神の国にはいる者とはどういう者であるかを学びましょう。


1.こどものように

 親たちはイエス様からの祝福をいただきたくて、子どもたちをイエス様のもとに連れてきました。ところが、弟子たちは「先生はお忙しいのだ。子どもの相手などしてやっているお暇などない。」と叱りつけてしまいます。弟子たちは、良いことをしたと思っていましたら、イエス様からこっぴどく叱られてしまいます。ほんの少し前、イエス様から子どもについては丁寧に教えてもらったばかりなのに、このありさまです。9:42「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げこまれたほうがましです。」まさに弟子たちは石臼ものでした。
 イエス様は憤られました。14節。15節。

10:14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
10:15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」

「君たちは、自分が人々を導く先生だと思っているかもしれないが、とんでもない。この子どもたちこそ君たちの先生だ。」ということです。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、神の国にはけっして入れないというのですから。

 子どものように神の国を受け入れるとはどういうことでしょう。ある人たちが考えるように、子供には罪がないからではありません。ダビデ詩篇51編で嘆いたように、私たちは母の胎に宿ったときから罪があるのです。子どもは自分勝手で、大人のような配慮ができない分、おとなより残酷でさえあります。
では、子どもが神の国に相応しいのはなぜかと言えば、第一点は子どもは神様の前に単純であるぶん、偽善で自分を欺くことができない分、罪を神様から示されると、認めやすいからでしょう。 第二点は、子どもは自分の力では生きられないことをよく知っていて、信じて頼ることを知っているからです。子どもはお父さんがお母さんがいなければ、生きていけません。おとなは愚かにも、神になど頼らずとも自分は大丈夫だなどと思いがちです。かつての私もそうでした。
人は、第一に神様の前に自分は無力であり罪人だということを認めて「ごめんなさい」と言うこと、第二に、そんな罪ある自分を神様はイエス様の贖いのゆえに赦して、ご自分の子として受け入れてくださったことを「ありがとうございます」と感謝すること、これなしに神の国には入れないのです。神様ごめんなさい、そして、神様ありがとうです。


2.金持ちの青年

 さて、今度は神の国に入れなかった人の話です。意外な人が神の国にはいれないのです。この人は、「青年」であったとマタイ伝の平行記事には書かれています。職業は「役人」であったとルカの平行記事にあります。そして、「金持ち」であったとあります。それだけでなく、彼はなかなか「品行方正な人」でした。イエス様が十戒の後半を守りなさいというと「そんなことは小さい時からみな守っています」と即座に答えているほどです。また、彼は礼儀正しい人でした。17節には、イエス様の前に走り寄ると、御前にひざまずいたとあります。
 さらに、彼はたいへん「真剣な求道者」でした。彼は主イエスにかけよると言いました。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」・・・福音書を読みますと、イエス様のもとに来て祝福にあずかった人たちはいろいろです。ある人は病気を直してもらいたくてやってきました。またザアカイのような人はたぶん単なる好奇心で木にのぼってイエス様を葉っぱの陰からのぞいていていました。「永遠のいのちへの道はなにか?」とか「真理とは何か?」などという高尚な動機ではありません。けれども、彼らはイエス様の恵みにあずかったのです。
 今日イエス様のところにやってきたのは、財産があり、社会的地位があり、しかも品行方正で礼儀正しく、さらに、真剣な求道心もあった青年です。けれども、彼は神の国にふさわしくなかったのです。何が問題で神の国にふさわしくないとされたのでしょうか。
 それは、この青年が自分は十分に正しく生きてきた。律法については恥じるところのない者であると自負していたことでした。イエス様はこの点をテストされました。19節。

10:19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」

すると、彼はちょっと不満げに「そんなことならもう知っています。守ってきました。」と言いました。彼には、自分は神の御前に正しい人間であるという自負があったのです。
  すると、主イエスはどうされたでしょうか。主イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われたとあります。イエス様はきっとこんなふうに思っていらしたでしょう。
『ああ、君は、裕福で、しかも敬虔な家庭環境に恵まれ、強くて思いやりある父親と、やさしく賢い母親に育てられ、律法を幼いころからしっかりと学んできたのだな。また、健康にも才能にも恵まれて大きな障害もなく、理想を見つめて、青年らしく生きてきたのだな。今までにひたむきに生きてきて、挫折を知らなかったのだなあ。』
そういう感慨をいだいて主イエスはこの青年を見つめられたのだと思います。しかし、そうした人生を歩んできたこの青年には、わからないことがありました。それは、自分という人間が罪ある者であり、罪を犯さないでは生きてゆけない弱く惨めな存在なのだという現実です。
 主イエスは、そこで彼に言いました。21節括弧の中。そして22節。

10:21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

 主がいつもとおっしゃることが違うなと感じるのではないでしょうか。「神の国は子どものように受け入れるならだれでも入れる」とおっしゃったばかりじゃないかと思うでしょう。「律法を守りなさい」とか、「全財産を施しなさい」とかとはどういうことでしょうか。イエス様の、この青年へのチャレンジのことばの意図は、青年に自分の罪を悟らせるためです。自分は真実の意味では、決して神様の律法を守って来なかったのだ。守れない罪人なのだと悟らせるためでした。
 彼はできるかぎり律法を守ってきたでしょう。 「神様の御前に、私は罪があります。」という自分の罪の認識がなくては、誰一人救われないのです。医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人なのです。イエス様は正しい人ではなく罪人を救うために来られたのです。「私は罪があります。今まで自分なりにまじめに生きてきたつもりでしたが、実際には神様の愛の命令に従えない金に縛られている惨めな罪人です。」とこの青年が自らの罪を認めたとき、彼には永遠のいのちが得られるのです。そして、その時には彼は金の力からも自由になるのです。
 そういう訳で、イエス様は、彼を突き放されたのです。青年は肩を落として帰って行きました。

10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。


この青年のようすを読めば読むほど、私の頭には聖書のなかの一人の人物が浮かび上がります。それは若き日のサウロ(パウロ)です。若い日、パウロは富も家柄も地位も才能も品性も完璧に備えたエリートでした。しかし、主イエスに出会い心探られ、己の罪を知り、主イエスの十字架のあがないを信じて救われました。すると、彼は今までの地位・名誉・財産すべてを捨ててイエス様の伝道者となったのです。イエス様を知ったことに比べれば、それらのものはちりあくたにすぎないことがわかったからです。彼はこのとほかの弟子たちに後れを取りましたが、のちにはどの弟子たちよりも多く主のために働き、多く種のために苦しむことになりました。


3.神にはできる

 イエス様は弟子たちに言いました。23−26節。

10:23 イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。」
10:24 弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。
10:25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
10:26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」

実際、お金は偶像になって人を滅ぼす力を持っています。銀貨30枚のためにイスカリオテ・ユダもイエスを裏切り、お金のためにアカンとその家族は滅び、おカネのために初代教会のアナニヤ・サッピラ夫婦は滅びました。警戒すべきです。だれも二人の主人に仕えることはできません。 私たちも弟子たちのように金持ちの救いの困難さに驚きます。不安になります。しかし、主イエスはその先を言われるのです。

27節。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」

お金の奴隷になっているような人でも、神様はお救いになることができるのです。たとえば、エリコの町のザアカイという守銭奴は、イエス様を受け入れたらカネの奴隷から解放され、主のしもべになりました。そしてカネを神様のみこころにかなって、貧しい人々にほどこすこともできるようになりました。だから、かんじんなのは、やはり子どものように素直になって、まずイエス様を受け入れることなのです。神様であるイエス様を受け入れるならば、私たちはほんとうに自由になるのです。
 するとペテロは口をはさみました。28節。

10:28 ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」

あの金持ちはカネが手放せなくて、すごすごかえって行きましたが、私たちはすべてを捨ててしたがって来ましたというのです。その通りでした。しかし、それはイエス様がペテロの名を呼んでくれたときに、そうなったのでした。イエス様は、献身をした弟子たちに祝福を約束なさいます(29、30節)。

10:29 イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、
10:30 その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。
しかし、主イエスは最後にくぎをさします。

31節。「しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」
君がわたしのためにすべてを捨てた、そのことはよい。しかし、それを誇りとして傲慢になるならば、自分が先頭を走っているつもりでも、気づいたら一番しっぽにいることになるんだよ、ということです。自分の罪を認めてごめんなさいといい、神様に救い主イエス様をありがとうございます、という者が神の国に入るのです。


結び
 自分が神様のために、イエス様のために何かをした。何かを捧げた。そういうことがいつのまにか、自分を誇り高ぶらせる律法の行いになってしまったら、自分は先頭にいると思い込んでいても、実はすでに後の者になっているのです。ペテロのように自分ほど真剣に主に従っている者はありませんとしたとき、先のものが後になるのです。
 私たちはすべてを捨てて主に従いたい。しかし、従いえたときには、それもまた神様の恵みによったのだということを忘れないでいたい。いつも、子どものように遜って、素直に神様の御国を受け入れて歩くことです。すべては主の恵みです。