苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

イエス、比類なきお方

8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
8:13 そこでパリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」
8:14 イエスは答えて、彼らに言われた。「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。
8:15 あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。
8:16 しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。
8:17 あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。
8:18 わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」
8:19 すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」(ヨハネ福音書8:12−19)

 イエスのことばをこうして読むならば、もしこの方がただの人間であったとすれば、これほど傲慢な人間はいなかったと言わざるをえない。自分が世の光であり、自分は創造主なる神と並んで証言者としての権威をもち、人は自分を知ることを通してしか創造主なる神を知りえないという。つまり、イエスは自分を神と等しくしているのである。ユダヤ最高議会サンヘドリンが、最終的にイエスを、自分を神と等しくしたというかどで死刑とさだめたのは正しかった。もし、イエスが実際に、神の御子、神と等しい方でなかったとするならば。

 さらに言うなら、イエスの発言はいわゆる人間としての傲慢の域を超えてしまっている。現代社会であれば、通常、このような発言をする人というのは、精神に疾患をきたしていると判断される。古代ユダヤ社会では「あなたは悪霊にとりつかれている」(8:48)と判断された。
 だが精神に疾患をきたし、自分が神に等しい者だというようなたぐいの妄想に取りつかれているような人の場合には、必ずそれにともなって、日常生活の言動においてさまざまな不都合をきたすものである。知性についていえば、思考の一貫性がなくなり、感情について言えば、喜怒哀楽が平板化し、意志についていえば、何をするにも意欲がなくなったりといったようなことが伴うのである。だが、イエスの生涯を見れば明らかなように、イエスの知性はいつも冴えていて論争を挑んだ律法学者たちを退散させ、その喜怒哀楽の感情生活は豊かであり、生涯意欲に満ち活発であられた。心開いて身近にイエスに接した人たちは、そこに深い愛と憐れみと正義と真実とを経験したのである。イエスという方は、人としてこの上なく正常な精神生活を送っておられて、かつ、自分を神と等しくしたのである。イエスという方は、まことに比類なきお方であった。