「イエスが、、過ぎ越しの祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてはだれの証言も必要とされなかったからである。」(ヨハネ福音書2:23−25)
ヨハネ福音書には「しるし」ということばが、ガリラヤのカナの婚礼において水を葡萄酒に変えた奇跡を最初として何度も出てくる。多くの人は、しるしを見て、御名を信じたとある。では、そうして起こった信仰は本物であったかというと、そうでもなかった。しるしを見て信じた人々を、イエスは信用なさらなかった。しるしを見て信じた人々は、イエスをメシヤ、王として担ぎ出し、自分たちの思いを遂げようとしていることをイエスは知っておられたからであり、イエスはそれを望んでおられなかったのである。こうした記事はいわゆる五千人給食のときにもしるされている。
しるしを見てイエスを信じる、そういう信仰は、神の前では無意味なこと、むしろ有害なことであるということを意味しているのだろうか。では、しるしは何のために与えられるのだろう。