苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

パン種に注意

マルコ8:1−21
2016年11月27日

 お読みした箇所は、まず1節から10節が「四千人給食の奇跡」の記事、11節から13節がパリサイ人が「しるし」を求めてきたという記事、そして14節から21節は「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種に警戒せよ」という教えの記事です。中心となっているのは第三の部分つまり、「パン種に警戒せよ」ということです。14節以降を中心にお話しします。


1.弟子の心配と主イエスの心配

 主イエスと弟子たちは、またガリラヤの湖に舟を浮かべています。行き先はベツサイダ(22)です。ところが、荷物を確認してみるとパンを持ってくるのを忘れていることに弟子たちは気づきました。「おまえが食料係じゃないか。」とか「いやお前こそ」とか言い始めました。そこで、イエス様はこれを機会として、弟子たちに話しておきたいことを言われたのです。
15節「そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。『パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気を付けなさい。」
 イエス様のおっしゃる「パン種」とは「間違った教え」のことです。パン種はパンの発酵に用いられる酵母ですが、それがほんのわずかであっても全体をおおきく膨らませます。そのように、教えの中にはは小さな違いに見えても、教会全体をおかしな方向へと導いてしまうものがあります。そこで、イエス様はパリサイ人たちの教え、および、ヘロデのパン種にも気を付けなさいとおっしゃるのです。マタイ福音書の平行記事では、ヘロデのパン種のかわりに、サドカイ人のパン種とありましから、主イエスは三つのパン種に気をつけよとおっしゃったわけです。
 ところが、弟子たちは滑稽なことに「それみろ、イエス様がパンがないじゃないかといって心配なさっている。」「君がかかりだったんじゃないか」などと議論を始めてしまいました。16節。
 そこでイエス様は17節から21節におっしゃいます。

8:17 それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。
8:18 目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。
8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」
8:20 「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」
8:21 イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」

 5000人に5つで、12かご。4000人に7つで、7かご。群集の数と分けたパンの数と残ったパンの数の関係を関数にして表わすと・・・?などと弟子たちは考えたとしたら、ますますわからなくなります。マタイの平行記事をみましょう。16:11、12。

16:11 わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」
16:12 彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。

 主イエスがおっしゃりたいのは、要するに、「神に信頼して生活しているかぎりは、あなたがたは食べることで何も心配することはない。五千人でも四千人でも神様はちゃんと養ってくれて、余りまであったじゃないか。注意すべきは、パリサイ人の教え、ヘロデの教え、そしてサドカイ人の教えだよ。」ということです。異なる福音というか、間違った教えは、信仰生活に致命傷になるから気をつけなさいということです。


2.パリサイ人のパン種
 パリサイ人の教えには二つの問題点がありました。ひとつは「しるしを求める」ということでした。11節にこのことが書かれています。

8:11 パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスをためそうとしたのである。 8:12 イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」

「しるし」というのは、神からの権威を明白に示す奇跡のことです。「イエスよ、あなたが何か偉大な奇跡を行なったならば、あなたが神としての権威をもつ者であることを認めてやろう。」という態度です。イエス様はこのように「しるし」を求めるパリサイ的態度を非難します。<イエス様を信頼しきっているから癒していただける>と信じて求める者を、主は拒みません。しかし、<奇跡をやってみよ。そしたら信じてやる。>という態度をイエス様は非難します。パリサイ人のしるしを求める態度は、自分を神よりも上に置いて、神をテストしようという態度であるからです。

 パリサイ人の教えの間違いの二つ目は、律法主義による偽善というものです。主イエスはこうおっしゃいました。マタイ23:25−28

「23:25 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。 23:26 目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。  23:27 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。 23:28 そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」

 モーセの時代に神様は人間に律法をお与えになりました。十戒はその要約です。「あなたにはわたしのほかに他の神々があってはならない」「偶像を拝んではならない」「主の御名をみだりにとなえてはならない」「安息日を憶えてこれを聖なる日とせよ」「あなたの父母を敬え」「ころしては成らない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証をしてはならない」「隣人のものをほしがってはならない」。
 これら律法には本来二つの機能があります。第一は人間に「ああ、私は神の前に罪ある者なのだ」と罪を自覚させることです。山ノ神、海の神、かまどの神・・・を拝んできたのは罪だったんだとわかります。父母をないがしろにしていたのは罪だったんだとわかります。うそをついてきた自分は罪人だとわかります。そして、人はキリストにある罪の求めるようになるのです。
 律法の第二の機能は、罪赦された感謝のうちにへりくだりながら、律法のガイドにしたがって、神を愛し隣人を愛して生きるのを助けることです。
 けれども、パリサイ人たちは、律法は、それを守って神の前に功徳を積み上げるために与えられたのだと考えました。ところが実際に律法を完璧に守ることが人間にはできませんから、結果としては、神を愛し隣人を愛するという律法の眼目を見失って、文言上形だけ守ったことにするという理屈を編み出し偽善に陥っていたのです。こうしてパリサイ派は、結局、イエス様のことばでいえば、白く塗られた墓のようになってしまいました。
 大事なことは私たちが自分は律法にかなわない罪人であることを認めて、へりくだって、主の赦しを信じること。そして、罪赦された罪人として、神を愛し隣人を愛して生きるガイドとして律法を用いることです。


(2)ヘロデのパン種
 ヘロデのパン種とはなんでしょうか。ヘロデ王が教えを垂れたわけではなく、ローマ文化の世俗的な考え方、価値観ということです。ヘロデ王自ら兄弟の妻を自分の妻として姦淫の罪を犯し、金と権力と快楽との追求を人生の目的とするような生き方をしていたのです。ヘロデのパン種はクリスチャンの世界に巧妙なかたちで入り込んでくると、それは無律法主義ということです。行ないによるのではなく、恵みによって救われたから、どんなけがれた生活をしてもいいのだという生き方です。とんでもないことです。その木の善し悪しは、実によって判明するものです。良い実は悪い木からは取れないし、悪い実は良い木からは取れません。口先でいかに「主よ。」「主よ」と言っていても、主のくださった律法をあえて踏みつけにしているとすれば、その人は真のクリスチャンではないのです。
 律法を守ることで功徳を積んで救われるという律法主義も、恵みで救われるのだから律法など要らないという無律法主義はどちらもまちがいです。正しく律法の役割を認識しましょう。二つです。
 第一に、律法は私たちを罪の自覚に導き、主イエスによる恵みにすがらせます。
 第二に、律法は罪赦された者が神を愛し隣人を愛して生きるガイドとなります。


(3)サドカイ人のパン種
 マタイ福音書の平行記事には、主イエスは「サドカイ人のパン種に気をつけなさい」とおっしゃっていますから、ついでに扱っておきましょう。サドカイ派の人々は、ギリシャの合理主義哲学の影響を受けた人々でした。彼らにとっての真理の基準は人間の理性です。理性で納得できるかぎりは認めるが、納得できないものは認めないのです。彼らはユダヤ人として神は世界を造ったことは認めるけれども、神がこの世界に介入することはないと考えていました。なぜか。この秩序ある世界を見れば、これに知性ある創造主がいると考えることは理性で納得できるが、復活や天使の存在は見たことがないから、理性で納得できないので否定したのです。神のことばである聖書よりも、人間理性のほうが上にあると考え、人間理性に納得できないことは、聖書に書かれていても信じないというのが、サドカイ派です。
 サドカイ人たちに対して、主イエスは、「あなた方は、聖書も神の力も知らない」(マタイ22:29)と断言なさいました。彼らの言う神は、生ける神ではなく死んだ神です。サドカイ派の合理主義は、教会の歴史のなかでは18世紀ころ強くなり、彼らは聖書よりも理性を上に置き、理性で受け入れられない奇跡や啓示を否定します。モーセが海を割ってイスラエルの民を通したこと、預言者たちの語った出来事が事実キリストにおいて成就したこと、神が人となられたこと、主イエスが行った数々の奇跡、主イエスが十字架で死んだのに三日目によみがえったこと、キリストが終わりの日に再臨して世をさばくことなど、超自然的な神のわざを否定します。そして、イエスを単なる愛の道徳の教師や革命家として扱うのです。このサドカイ派のパン種は、近現代の教会に広範な影響を及ぼしています。
 理性は神が人間にくださった賜物ですから、たいせつなものですが、理性はその限界をわきまえて使うことが肝心なのです。そうでなければ、理性崇拝という偶像崇拝です。


結び
 この終わりの時代にあって、私たちはヘロデのパン種という世俗主義・無律法主義、パリサイ人のパン種つまり律法主義、そしてサドカイ派のパン種つまり合理主義に警戒しましょう。
 積極的に言いかえれば、2点大事なことを今朝学びました。
第一は、罪ある自分が行いではなくキリストの恵みによって救われたことを感謝しつつ、神のことばのガイドにしたがって、神を愛し隣人を愛して生きること。
第二は、人間理性を聖書の上に置くサドカイ派の合理主義の過ちに陥らないで、神のことばである聖書の下に自分の理性を置いて、へりくだってみことばにしたがって生きてゆきましょう。