苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

この終わりの時には、御子によって語られた

1:1 神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
1:2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(ヘブル1:1-3)

 「むかし」はキリストを待望する旧約時代、「終わりの時」とはキリストが到来された新約時代である。旧約時代、預言・奇跡・神の顕現という方法で啓示がなされたが、受肉されたキリストの啓示は旧約時代のすべての啓示の集約であり成就である。そして、御子の人格そのものが神の本質の完全な現われであった。
 キリストにあって、神を知ることができるという時代に生かされているということが、どれほどの特権であることか。もし旧約聖書のみしか与えられていないとすると、私はどれほど、神がどのようなお方であるかということを知りえただろう?おそらく上っ面だけ読んで、「創造主はおっかない方だ」という程度の印象を得ただけにすぎなかっただろう。ホレブ山の麓で恐怖でふるえていたイスラエルの民と同じように。
 聖霊に心照らされて福音書を読み、地上を歩まれた御子の姿を見、そのお言葉に聞き、あの十字架上の祈りを聞いたとき、私は、神は愛であることを知った。いまだかつて神を見た者はいない。父の懐におられるひとり子の神が、神を解き明かされた。