苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

すべては神の作品ゆえ

4:1 しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。 4:2 それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、 4:3 結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。 4:4 神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。 4:5 神のことばと祈りとによって、聖められるからです。(1テモテ4:1−5)

 妻帯禁止や断食修業というと、なんだかありがたい宗教のように映るというのは、洋の東西を問わず、また、時代を超えて共通しているらしい。日本以外の仏教では出家者は妻帯禁止・肉食禁止である。ローマ教会が聖職者に妻帯を禁じているのも、おそらく精神を善とし肉体(物質)を悪とする二元論的な異教的習俗・価値観の影響だろう。
 しかし、精神も物質(肉体)も、創造主が造られたものであるゆえに、良い物なのである。これが聖書的価値観の存在論的土台。

追記
 主イエスは、結婚・離婚問答において、独身者について教えられた。先天的に独身者として生まれついた者。人から独身者にさせられた者。天の御国のために自ら独身を選んだ者という三種類の独身者がいる(マタイ19章)。ローマ教会における聖職独身制は、第三番目のケースだということなのだろうが、聖職者が独身であるべきだという根拠が聖書にはない。旧約時代、祭司たちは妻帯していた。また、彼らが初代ローマ教皇だとするペテロ(ケパ)は妻を連れて伝道者生活をしていた(1コリント9:5)。
 天の御国のために独身を選ぶのがよいという場合は、たしかにあると思う。たとえば命を落とす危険のある地域へ宣教師としての使命を受けたと自覚する人は、独身を選択するのが賢明であろう。パウロがその例である。 また、逆に天の御国のために結婚することを選ぶのが賢明だということもある。日本のような状況ではプロテスタント教会の牧会者としては、結婚をしているということが役に立つことが多い。