苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「大衆」・・・・・石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』から

 本書に「わが闘争」の「宣伝」についての考えが引用されていました。「大衆の時代」、政府のマスメディア支配の効果と危険性。

「宣伝は手段であり、目的の観点から評価されなければならない。宣伝の形式は、それが使える目的に向けて効果的に適合するものでなければならない。
 宣伝は誰に向けられるべきか。学識あるインテリに対してか、それとも余り教養のない大衆に対してか。宣伝は永久に大衆だけに向けられるべきである!
 どんな宣伝も民衆に受け入れられるものでなければならない。巨大な大衆の受容能力は非常に限られており、忘れる力は大きい。この事実からわかるように、効果的な宣伝はポイントを少しに絞り、それをスローガンのように、最後のひとりがそのことばで目的としたものを思い浮かべることができるまで、使い続けなければならない。」

「広範な大衆は本能のかたまりに過ぎず、その感性は、対立を欲すると主張する人間同士が握手することなど理解しない。広範な大衆が望むことは、強者の勝利と、弱者の根絶あるいはその無条件の服従である。」

 ワイマール憲法で男女平等の普通選挙が実現したので、大衆をいかにコントロールするかが、政権の獲得と維持維持するの成否を決定する時代となった。ヒトラーが、そのことについては、同時代の誰よりも長けていたことは紛れもない事実でした。

 上の引用文に見るようにヒトラーは大衆を侮蔑しきっていて、それを200万部以上売り上げたという『わが闘争』に堂々と書いているわけですが、それでも大衆はこのように侮蔑されつつ、ヒトラーにコントロールされて暴走していったのでした。「大衆」は自分をこんなに侮蔑している指導者になぜついていったのでしょう?
 それはきっと、一人ひとりの国民が「自分は愚かな『大衆』の一人ではない」という根拠のない自負をもっていたからであろうと思います。・・・あるいは、「わが闘争」は1245万部売れたけれど、読んだ人はわずかだったからでしょうか。