苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

しかし、主はヨセフとともにおられ

創世記38,39章、マタイ12:22-50

主がヨセフとともおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。(39:2)

しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みをほどこし、監獄の長のこころにかなうようにされた。(39:21)

 兄たちの妬みと憎しみを買って隊商に売り飛ばされ、エジプトに行ったヨセフ。しかし、主がヨセフとともおられたので、エジプトの役人のもとで奴隷となり、そこで成功を収めた。しかし、ヨセフは主人の淫乱な妻に陥れられて獄に下ることになる。だが、主は囚人となったヨセフとともにおられた。
 故郷の父の許、エジプトの役人の屋敷の執事、獄の中の囚人と、環境や立場が変わっても、変わらないのは「主がともにおられた」という一点。この一点さえ変わらなければ、どんなところを歩かされても、大丈夫。この一点を欠いたら、環境が良かろうと立場が立派だろうと何の意味もない。主がともにおられる、この一点でキリスト者は生きる。