通読箇所 創世記31-33章、マタイ10章12節-11章1節
創世記 31:24
新改訳
しかし神は夜、夢にアラム人ラバンに現れて言われた。「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」
カナンの地で父を騙し、兄を出し抜いてきたヤコブは、カランの地に住む母の兄ラバンの許に逃れたが、そこで初めて騙されるという手痛い経験をした。若い狐が古狸に騙されたようなものだった。だがヤコブは挫けない。結局は、多くの家族と多くの財産を手に入れて、伯父の目を盗んではるかな故郷へと逃避行する。伯父はヤコブと論じ、甥から全てを取り上げて丸裸にして追い返すつもりであった。
ところが、ラバンが明日にはヤコブの群れに追いつこうとするその前夜、神がラバンに現れて、ドスの利いた声で警告した。「ヤコブと事の善悪を論じないように気をつけよ。」・・・お前には言い分はあろうが、お前の甥にも相当の言い分がある。わたしから見たら、どっちもどっちだ。もし本気で争うなら、身内での流血も免れまい。だから、事の善悪を論じるな。・・・こういう意味だろう。こうして神が、強欲な伯父と貪欲な甥との間に立ってくださった。立てられた石塚は、そのあかしである。
なんだかすっきりしないけれど、私たちの現実の生活には、事の善悪を論じず、神にゆだねることが必要という場合がままあるのではないか。私たちはどこまでも利己的で、視野が狭く、自分の都合を中心にしか考えられない、そういうものだということを神は知っておられる。