苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

驚くばかりの  (賛美のことば)

 驚くばかりの恵みなりき
 この身の汚れを知れる我に(聖歌229)


 作者ジョン・ニュートン(1725-1807)は、もと奴隷商人で後に牧師となった人で、英国の霊的覚醒運動の指導者の一人です。私はかつてこの一節を歌うごとに、ニュートンは奴隷商人をしながら良心の呵責にたえかねて回心に至ったのだろうと想像していました。
 ところが、自伝『ジョン・ニュートンの手紙』を読んでみると、真相はそうではないようです。彼は言います。「私は奴隷売買に従事している間、それは合法的なことであるとして、少しも良心の呵責を感じませんでし た。それが摂理によって与えられた職業であると考え、完全に満足していたのです。事 実、世間では奴隷売買は収益をもたらす上品な職業であると考えられていました。」彼は回心後もしばらくは良心の呵責なく奴隷商人をしていたのです。私は少なからずショックを受けました。どこかで聞いた「宗教者はしばしば良心を悩ます小さな罪には敏感だけれど、大きな社会的罪については鈍感なのだ」という非難の言葉が頭の中を行きめぐりました。
 けれども、現代の視点からニュートンを指さし非難することはたやすいことでしょうが、社会全体がその罪に染まり尽くしており、その罪のなかで生まれ育つならば、罪が罪であると気がつくことはどれほど困難でしょうか。肥だめに生まれ育ったうじ虫が、汚物こそスイートホームでありディナーであると思っているのと同様に。
 そういう自分の過去をありのままに告白しだからこそ、「驚くばかりの恵みだった」と歌うのがニュートンなのでしょう。きっと私たちも、主の御許に召された日には我が身を振り返って、赤面しながら「驚くばかりの恵みなりき!」と賛美しないではいられないに違いありません。二十世紀末の日本で世間が上品なこと、当たり前のことだと思いこんでいることのうちには、本当はとてつもなく罪深い汚らしいことがあるかもしれません。
 一方、ニュートンらの霊的覚醒運動の中、回心したウィルバーフォース(1759-1833) は奴隷制度の罪深さに目覚め、奴隷廃止運動の闘士となります。植民地地主たちの猛烈な反対にも屈することなく戦い抜き、ついに1807年英国で奴隷貿易廃止法が可決されました。奇しくもジョン・ニュートンが天に召されたその年でした。