苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

悪魔のひとやを (賛美のことば)

1.諸人(もろびと)こぞりて 迎えまつれ
久しく待ちにし 主は来ませり
主は来ませり 主は、主は来ませり


2.悪魔のひとやを 打ち砕きて
捕虜(とりこ)をはなつと 主は来ませり
主は来ませり 主は、主は来ませり


3.この世の闇路(やみじ)を 照らしたもう
妙なる光の 主は来ませり
主は来ませり 主は、主は来ませり


4.萎(しぼ)める心の 花を咲かせ
恵みの露(つゆ)置く 主は来ませり
主は来ませり 主は、主は来ませり


5.平和の君なる 御子を迎え
救いの主とぞ 誉め称えよ
誉め称えよ 誉め、誉め称えよ
            (賛美歌112番)

 この賛美を聞くと、千鳥幼稚園を思い出します。クリスマスが近づき木枯らし吹き始めた園庭で、先生のまわりをスキップしながら、「モロビトコゾリテムカエマツレ!」と心ウキウキ歌ったものです。けれども、幼心にとってこの賛美ほど謎に満ちた呪文はないのでした。「モロビト」「コゾリテ」「ムカエマツレ」・・何一つわかりません。そして極めつけは、「シュワキマセリ、シュワキマセリ」。なんかシュワシュワしてましたねえ。
 これほどポピュラーで、かつ、これほど分かりにくい表現の満載された賛美歌も珍しいかもしれません。「モロビト」や「コゾリテ」は大人になるにつれてだんだんとわかってきたのですが、ずいぶんたってからやっと本当の意味のわかったことばが、第二節の「悪魔のひとやを打ち砕きて・・・」の意味でした。
 はずかしながら、私はかつて二節を歌うたびに、勇ましいイエス様が悪魔が放った一本の矢を目にも留まらぬ早わざでつかみ取る と、ボキッとへし折っている場面を思い浮かべていました。そして、数人の人に聞いてみると、なんとみんな同じことを考えていたのでした(ああ仲間がいてよかった?)。
 『宇治拾遺物語』に前科七犯の男が「ひとやに七度ぞ入りたりける。」とあります。「ひとや」とは人屋つまり牢獄のことなのでした。これがわかると、「とりこを放つと」もよくわかります。イエス様は悪魔の牢獄を打ち砕いて、捕らわれの身だった私たちを、解放してくださいました。
 それにしても、「もろびとこぞりて」を歌うたびに幼い日から親しんできたことゆえの捨て難さを感じつつも、「わからんことばで歌うことが、ほんとうに神様の御心にかなったことなのだろうか。」と思うのです。
 初めのクリスマスに御子イエスの誕生のしらせを受けたのは荒野にいたのは羊飼いです。もし、あの夜、御使いたちが「もろびとこぞりてむかえまつれ!・・シュワキマセリ!」と告げたなら、もしかしたら羊飼いたちは「文語でなく口語で話してください」とか「天使の異言で話されてもわかりません。」と言ったかもしれません。

 そこで、普通のことばの112番。
1.みなさん集まれ むかえましょう 
  久しく待ってた 主は来られた

2.悪魔の牢屋を  打ち砕いて
  とりこを放つと 主は来られた

 ウーン、でもあまりピンと来ないなあ。


須磨教会千鳥幼稚園
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