1993年に「みちしお」という雑誌に連載した「賛美のことば」をいくつか掲載しようと思います。
1 緑のしたたる ベタニヤ村に
注がせたまいし 情けの雨は
涸れし心を 今もうるおす
3 いまわのきわにも ベタニヤ村の
ゆかしきそのかみ 偲ばせたまえ
尽きぬ望みは 主イエスにあれば
4 ラザロの墓なる 主の涙こそ
千代にもたえせぬ 愛のかたみか
主はいのちなり よみがえりなり
(讃美歌128番)
英訳聖書で最短の節は、ヨハネ福音書11章5節「イエスは涙を流された(Jesus wept.)」なのだと聞いたことがあります。愛するラザロの死に際して、主が流された涙です。
主イエスが「愛しておられた者」というからには、ラザロは何か秀でたところがあったのかと想像したくなるものですが、聖書はラザロの言葉も業績についても一言も語りません。ただ、彼は主に愛されていた、それだけが彼の美点です。その「かたみ(証)」が主の涙でした。
「注がせたまいし情けの雨」の「せ・たまい」は、「せ」と「たまい」はともに尊敬の助動詞で最高敬語であり、もったいなくも主イエスがラザロのためにお注ぎになった涙を意味しています。一方、3節の「ゆかしきそのかみ偲ばせたまえ」の「せ・たまえ」は、使役と尊敬で、「私たちに偲ばせてください」という意味です。
「情けの雨」とはなんでしょう。「ああああ、長崎はきょうも雨だった」と歌う人の心にも雨が降るように、雨は3節の涙の縁語です。ベタニヤ村に降る雨は、主イエスの涙をさしています。情と景が一致しているのです。
3節では、「私も死に直面するときに、ベタニヤ村でのこの故事を思い出したい」と歌っています。「ゆかし」とは、見たい、知りたいと心ひかれることです。「おくゆかしい」という言葉は現代ではエレガントくらいの意味にしか使いませんが、本来、「おく」は心を意味して、「おくゆかしい人」といえば、その心の深みを知りたいと思わせるような人柄のことです。「そのかみ」とは「その昔」の意。ですから、「ベタニヤ村のゆかしきそのかみ」とは、私もその場にいて見たかったと心ひかれる、ベタニヤ村での主イエスの落涙の故事」という意味です。
あなたの死の日にも、主はあの涙を流してくださるでしょう、きっと。