苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン12月3日  たといそうでなくとも

ダニエル書3章17,18節
口語訳>
「もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。

新改訳>
「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」


新共同訳>
「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝む事も、決していたしません。」

 「たといそうでなくとも」「もしそうでなくても」「そうでなくとも」ということばが鍵。シャデラク、メシャク、アベデネゴは、神が自分に都合がよいことをしてくださるから、というのでなく、真の神のみが、真の神であるゆえに、このお方だけを礼拝した。
 このとき、神は、燃える火の炉から彼らをお救いになった。だか、神は必ずしも、こういう窮地にある聖徒を火の炉から救い出すとはかぎらない。それはみこころののまま、のことである。だから、あまたの殉教者たちもいる。だからこそ、「たといそうでなくとも」という信仰の姿勢が肝心。
 といって、カントの定言命法(無上命令)ではない。目先のことはともかく、永遠の尺度をもって見れば、まことの神のみにお仕えすることこそ益なのだ。

「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」ピリピ1:21