苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン11月14日  喜び

詩編100:2
口語訳>
喜びをもって主に仕えよ。
歌いつつ、そのみ前にきたれ。


新改訳>
喜びをもって【主】に仕えよ。
喜び歌いつつ御前に来たれ。


新共同訳>
喜び祝い、主に仕え、
喜び歌って御前に進み出よ。

 クリスチャンになってから、生きることに喜びがあるのはあたりまえのようになってしまったが、ずいぶん前、イエス様を知る前を振り返ると、あのころは、喜びということをほとんど知らなかったのではないかなあと思う。子どものころ、関西の子どもなので、土曜日半ドンで帰宅すると吉本新喜劇岡八郎を見て、松竹新喜劇で藤山かんびを見て、夜には、親に非難されながら、8時ダヨ全員集合でドリフをみて、笑ってはいたけれども、喜びというものを知っていたかというと、知らなかった。それに中学、高校と進むにつれて、笑うことも少なくなって、むなしくなっていった。ただ、そのむなしさを紛らすためか、モリアオガエルを追い回していた。
 クリスチャンになって、喜びというものを知った。造り主である神の御手の中に生かされていることの安心ということであろうか。まことの神をお父さんとして知る前は、偶然の闇からなんとなく自分が生じて、やがて死んでしまえば偶然の闇の中に吞み込まれていってしまうという、そう、生きるということが何がなんだかわけのわからない状況のなかにあった。
 先日、大和昌平先生の講演で、日本人はわけのわからない災いをもたらすかもしれぬ「カミ」を恐れて、柱を立ててこれに依り付かせ「鎮まりたまえ」と拝んできた。ご自分はキリストを信じて、神をお父さんとして知るようになって、その恐れがすーっと消えた。これはすごい福音です。と話された。
 そうなのだ。それが喜びなのだ。