苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン10月15日  魂の奥底までご存知の神の前に

箴言20章9節

口語訳
だれが「わたしは自分の心を清めた、
わたしの罪は清められた」ということができようか。

新改訳
だれが、「私は自分の心をきよめた。
私は罪からきよめられた」
と言うことができよう。


新共同訳
わたしの心を潔白にした、と誰が言えようか。
罪から清めた、と誰が言えようか。

 わが国では「天地神明にかけて」とか言って、身の潔白を保証したりする。しかし、本物の神、万物の創造主にして私たちの人の目には隠れた行動も、私たちの心の中の隠れた意図も、私たちの今口に出そうとする言い訳も、私たちが自分自身意識することのできない無意識の動機さえもご存知のお方の前では、いったい誰が「わが心は潔白である。恥ずべきことは何一つない」と言うことができるだろう。人間の誇る義など、神の前では汚れたボロ雑巾に等しい。
 かつて聖書を読み始めて、この事実を知ったとき、数年間私は逃げ出したい気持ちになったのだが、しかし、さらに時間がたって、今度は安心の気持ちになった。全てを、そう、私自身さえも知らない私のけがれの全てをご存知の上で、主は私のことを受け入れると決断してくださったのだ、とわかったからである。清い御目に私の汚れを知られることは恐ろしく、申し訳ないという気持ちを持ちつつも、すべてをご承知のうえで御子の十字架のゆえに私のような者を赦してくださったという感謝のほうが勝るようになった。
 罪ある者としての限界はあるけれど、主イエスの血潮を注がれ赦された者として、きょう御前に誠実に生きることができますように。