苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン9月29日 主は私を守る方

詩編121章5-6節

口語訳
主はあなたを守る者、
主はあなたの右の手をおおう陰である。
昼は太陽があなたを撃つことなく、
夜は月があなたを撃つことはない。


新改訳
【主】は、あなたを守る方。
【主】は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、
夜も、月が、あなたを打つことはない。


新共同訳
主はあなたを見守る方、
あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
昼、太陽はあなたを撃つことがなく、
夜、月もあなたを撃つことがない。

 詩篇121篇は曲が付けられて讃美歌としても親しまれているエジプトのハレルのひとつで、巡礼がエルサレム詣でをするときに歌われたものだという。そのことからいえば、はるかな異郷からエルサレムを目指す巡礼が、荒野の旅路で歌った歌というイメージの一篇。
 どんな荒地も一夏すごせば草が生えてくるような日本の風土にあっては、ほんものの荒野というものを見ることがない。荒野は生命の存在を拒絶する。日本では旅を草枕というが、聖書の世界の旅は石枕である。かの地の昼の日は巡礼を撃つ。撃つだけでなく、文字通り撃ち殺す。しかし、主が日陰となってあなたを守ってくださる。夜になると二十度以上も気温がいっきに下がり、今度は月が巡礼を撃つ。月が撃つというのは、私たちにはなじみがないが、昔、月はある種の病気を引き起こすと考えられたという。
 とにかく、主は荒野の恐ろしい災いから守ってくださるお方。口語訳、新改訳は「守る者(方)」、新共同訳は「見守る方」と違うが、荒野の災いの病者の具体性を思えば、「見守る」だけでなく具体的に「守る」のほうがいいように思う。ヘブル語はシャーマール。
 生ける主に、あらゆる災いから命を守られて、今日も生きる。