苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』  読後感三点

 一ヶ月ほどまえ、N.T.ライト『クリスチャンであること』を通読しました。思いついたことを忘れないうちにメモしておきます。


1.なるほど!

 ライトの言うことで、「なるほど」と心に残ったのは、天と地というものは、プラトンがいうようにかけ離れた二元論的なものではなく、聖書では天と地は完全に一体として重なり合ってはいないが、その間に大きな溝があって隔てられているのでもなく、かみ合っていて深く関係しているという指摘です。
 彼の記述を読んでいて、私が思い描いたイメージとは、神は舞台監督であり、この世界の歴史は舞台であり、私たちはその舞台で演じている俳優であるということです。やがてキリストの再臨によって舞台は幕が下りて、第三幕としての新天新地が来る。いやそこには神と小羊との御座があるということを考えれば、もう舞台は終わって、監督も俳優たちも同じフロアでパーティをしていると言ったほうが適切かもしれません。・・・こういうことは別に書かれていないんですけどね。
 この点は、すごく興味深く読みました。そして、これは聖書における天と地のかかわりあい方をうまく表現しているように思いました。昔、フランシス・シェーファーが『真に霊的なこと』という本に書いていた天と地の関係に関する記述に似ているところがあると思いました。


2.いまひとつ・・・

 ライトが言っていることで「いまひとつ」「中途半端」と思ったのは、聖書全体をストーリーとして読むという点は良いのですが、それを創造からでなくアブラハムからスタートしていることです。聖書全体を時間軸に沿った大きな流れとして読むは、G.ヴォスやO.P.ロバートソンの契約神学、もっと昔のエイレナイオスの『使徒たちの使信の説明』を読んだ私には、ライトの仕事は別に新しくは感じられませんでした。
 しかし、近現代聖書学が、聖書を各書、各部分に分けたがるデカルト的還元主義の聖書学とは違う道を示したのは意義あることと思います。ただ、ライトがその物語をアブラハムからにしたのは中途半端だなあと思いました。なぜ創造から始めて黙示録にいたらないのでしょう。イスラエル民族の物語だけでは、中途半端ですね。


3.これは間違い
 
 ライトが言っていることで、明らかに「これは間違いだ」と言えることは、イエスが徐々に神の御子意識、キリスト意識に目覚めていったというふうなことを言っていることです。
「この点でも多くのクリスチャンは間違った方向に進んだ。イエスがその生涯の間、自分が『神である』ことに『気づいていた』というのである。その意味することは、自分についてのその知識を、どういうわけか瞬時にほとんど普通に自覚していた、というのである。」(p169)
 イエスがはじめから神の御子であると自覚していたことは、福音書を読めば明々白々で、疑う余地がありません。たとえば、マルコ伝2章の記事。

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2:5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。
2:6 ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。
2:7 「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」
2:8 彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。
2:9 中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、
2:11 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。

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 イエスはご自分が、「地上で罪を赦す権威を持っていること」を自覚していました。だから、中風で身動き取れなくなったオッサンに審判者の権威をもって「子よ。あなたの罪は赦されました。」と宣言したのです。
 またルカ伝2章のイエスが12歳のときエルサレム神殿を訪ねたとき、彼をさがしにきた母マリヤに向かって「どうして、わたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存知なかったのですか。」と言ったところを見ても、イエスが最初から神の御子としての自覚をもっていたことは明らかでしょう。
 嵐のガリラヤ湖で、雨と風に向かって「黙れ。静まれ。」と叫ばれたことを見ても、イエスがご自分が被造物世界に対して主権を持っていることを自覚していたことのしるしでしょう。もし、その自覚なくあんなことを叫んだとしたら、ただの変人です。福音書には、イエスの神の御子意識が最初から最後まであふれています。
 イエスが徐々に神の御子意識に目覚めていったのでは、まるで、ゴータマ・シッダールタがある日ブッダ(覚者)になったみたいです。イエスの神性の自覚が徐々に起こったのだという無理な主張は、「歴史において意味は徐々に開示されていく」という、ライトの考え方の好みが反映しているのかもしれません。もし福音書の記述は記者の単なる作り話だというのがライトの立場であれば、話はまったく別で、論じる意味すらありませんが、彼はたぶん聖書を重んじる立場のはずです。これが不思議。リベラル派に気を使ったんですかねえ。リベラリズムが支配的な聖書学という土俵の上にいると、やっぱりこんな風に考えてしまうんでしょうか。