苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン8月28日  荒野を旅する神の民

(エレミヤ31:8)

口語訳
見よ、わたしは彼らを北の国から連れ帰り、
彼らを地の果から集める。
彼らのうちには、盲人やあしなえ、
妊婦、産婦も共にいる。
彼らは大きな群れとなって、ここに帰ってくる。

新改訳
見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、
地の果てから彼らを集める。
その中には目の見えない者も足のなえた者も、
妊婦も産婦も共にいる。
彼らは大集団をなして、ここに帰る。


新共同訳
見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し、
わたしは彼らを地の果てから呼び集める。
その中には目の見えない人も、歩けない人も、
身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。
彼らは大いなる会衆となって帰って来る。
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 翻訳上、大きな異同はない。
 場面は、バビロン捕囚からの解放である。主はエレミヤに、ひとたびその罪ゆえにバビロンに捕囚とされ奴隷とされた南ユダ王国の民は、70年の刑期が終わるとカナンの地に帰って来ると約束してくださった。のろいが解かれた!という場面である。だからここ31章は喜びと輝きが基調である。
 しかし、バビロンからエルサレムに戻るといっても、電車があるわけではない。かつて、先祖がエジプト脱出において経験したと同じく、大集団の徒歩の荒野の長旅である。格別、盲人、足なえ、臨月の女はたいへん。チグリス川のほとりを北の源流へとさかのぼり、先祖アブラハムが一時寄留したカランの地を経て、今度は南西へと、かつてヤコブの一族がラバンから逃避行した道を列を成してくだってくる。現代の都市生活者にとっては「死の行軍」だが、ここは今日でいえば、砂漠の民ベドウィンの人々のたくましさを想像すべきなのだろう。いや、それでも、盲人、足の弱い老人、子ども、身ごもった女たちには苦難である。旅の途上、倒れる者、出産する者、先祖の地を見られずに終わる者も当然あったろう。直後に、主の慰め深いことばが続いている。・・・荒野を旅する神の民。それは歴史と言う荒野を旅する教会の姿の一つのイメージだろう。

「彼らは泣き悲しんで帰ってくる。わたしは慰めながら彼らを導き帰る。彼らがつまずかないように、まっすぐな道により、水の流れのそばを通らせる。それは、わたしがイスラエルの父であり、エフライムはわたしの長子だからである。」