苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン7月20日(月)

イザヤ25:8
口語訳
主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。
新改訳
永久に死を滅ぼされる。
  神である主はすべての顔から涙をぬぐい、
  ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。
  【主】が語られたのだ。
新共同訳
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐわれる。
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ローズンゲンでは新共同訳の部分のみなので、前後も書き出してみた。ここで主が涙をぬぐわれるというのは、死が滅ぼされた日のことを言っているのだとわかる。もはや死も涙も叫びもない、というあの日のことを彷彿とする。
幼いころ、喧嘩をしたり、しかられたり、悔しかったりして泣いた記憶がある。それから、字をならって本を読み、歌を歌うようになって、歌の絵本で「うさぎおーいし かのかわー」と口ずさみながら涙が出てきた記憶がある。中学、高校になってなにかと教師や社会や親に対して批判的になって、心硬くなり涙を流すことがほとんどなくなったように思う。
 ところが二十歳前、教会にかよい始めて、こんな罪ある者のために、神の御子が進んで十字架にかかってくださったことを知って以来、主の愛を思うとつい涙が出るようになってしまった。だから、私には、主とお目にかかるあの日に涙がないというのは信じがたい。まあ、無論この涙は悔しさや悲嘆の涙という意味なのだろうな。