苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン7月3日

(詩34:6)
文語訳
この苦しむもの叫びたればヱホバこれをきき
そのすべての患難よりすくひいだしたまへり
口語訳
この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、
すべての悩みから救い出された。
新改訳
この悩む者が呼ばわったとき、【主】は聞かれた。
こうして、主はすべての苦しみから彼を救われた。
新共同訳(34:7)
貧しい人が呼び求める声を主は聞き、
苦難から常に救ってくださった。
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 他の訳が「この苦しむ者」「この悩む者」とあるのを、新共同訳は「貧しい人」としているのが特徴の一つ。ヘブル本文では「このze」とあるのを新共同訳は省略している。文脈としては、詩人が自分のことをさすことばとして「この」と言っているところなので、省略は不適当。諸英訳を見ても、thisを省略したものはない。また日本語として「貧しい者」であればまだ自分を指すことを暗示できるが、「貧しい人」という表現では「貧しい人一般」を指すことになってしまう。
 aniは「苦しむ者」「貧しい人」のどちらにも訳せる語ではあるが、経済的困窮を意味している文脈ではないので、ここは前者がよいと思う。どうも、この箇所は新共同訳が新味を出そうとして、うまくいっていない箇所に見える。
 悩み、苦しみは、できれば避けたいと思うものだが、「あの日の」悩み、苦しみをとおしてこそ、人が主を真剣に呼び求め、そして主が聞いてくださるという経験をして、主を知るようになったのは、まぎれもない事実。振り返ってこそ言えることだが、苦難の日々は尊くかけがえのないものである。
 これはダビデの若い日の苦難を歌ったものとされる。若い日に苦しみのなかで主とともに生きたダビデの姿と、後年、功成り名を遂げて無事な日々のなかで取り返しのつかない罪に落ちたダビデの姿との落差を思う。
 苦難のなかで主を呼び、平穏な日々にも主に感謝して生きよう。