苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン6月11日


ノイバラ(野茨)

詩篇50:15
文語訳:
なやみの日にわれをよべ
我なんぢを援けん
而してなんぢ我をあがむべし

口語訳:悩みの日にわたしを呼べ、
わたしはあなたを助け、
あなたはわたしをあがめるであろう」。

新改訳:
苦難の日にはわたしを呼び求めよ。
わたしはあなたを助け出そう。
あなたはわたしをあがめよう。

新共同訳:
わたしを呼ぶがよい。
苦難の日、わたしはお前を救おう。
そのことによってお前はわたしの栄光を輝かすであろう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 新共同訳だけちと変わっている。他の訳が「なやみの日」「苦難の日」は「呼び求めよ」にかかると読んでいるのだが、新共同訳のみ「救おう」にかけている。ほかにBible Hubで20ほど英訳をみても、すべて「呼び求めよ」にかけている。ヘブル本文を見ても、「苦難の日に呼び求めよ」が正解だと思う。苦難だから、呼び求める。苦しいときの神頼みと軽蔑されても、それが人間の現実である。試練は求めるものではないけれど、試練が信仰者の成長・成熟のために必要であることは聖書が何度も何度も語るところ。
 もうひとつは他訳が「あがめる」としているところを、「栄光を輝かす」しているところ。まあ、これは訳し方のちがい。あがめるとは栄光を現わすこと。それはがんばることではなく、神の栄光を自分のものとして盗まず、神に栄光を帰すこと。