苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

J.I.パッカーの贖罪論の翻訳草稿を見せてもらって

 カナダに住む友人が訳した、J.I.Packerの若い日の贖罪論に関する論考と、最近の贖罪論再考の翻訳草稿を読ませてもらいました。後者は若い日に書かれた贖罪論の論文を振り返りつつ、簡潔平明に記されていますが、本質的に若き日の贖罪理解には改訂の必要は認めないとしています。
 その最後のほうに、今流行のN.T.ライトを初めとするNPP(New Perspective of Paul)を意識して記された部分があります。パッカーはNPPの労が聖書の物語全体の把握のために成した貢献について評価しつつ、もっとも肝心なところで的を外している、また、限りなく近く、限りなく遠い、としています。次のところは、パッカーのたましいの叫びと聞きました。

「しかし、新約聖書に収められている各々の書が、他にどのような役割を果たしうるとしても、いずれにせよルターが発した以下の重要な問いを考慮しているという点を、どのように否定しうるのか私にはわかりません。

弱く邪悪で罪深い者が、どうしたら恵み深い神を見出すことができようか?(ルター)

また、本当のキリスト教は、その恵み深い神を発見した時にこそ、始まるということも否定できないのです。」


 私もパッカーとともに、こう叫びたいと思います。
 この友人の訳業を義認論と併せて、日本で出版できれば、キリスト教界に益するところが大きいと思っています。