苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン3月10日  遅れないでください

詩編40:17
あなたは私の助け、私を助け出す方。
わが神よ。遅れないでください。(新改訳)


あなたはわが助け、わが救主です。
わが神よ、ためらわないでください。(口語訳)


なんぢはわが助なり われをすくひたまふ者なり ああわが神よねがはくはためらひたまふなかれ (文語訳)



あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場、
わたしの神よ、速やかに来てください。(新共同訳)

 
 「遅れないで」「ためらわないで」「すみやかにきて」とあるのは、achar「ためらう、ぐずぐずする、遅れる」ということば。母親が、「遅刻するわよ。早くしなさい。」という感じ。「神様、ぐずぐずしないで、早く助けてください。」
 こういう祈り詩篇にときどき見られる。詩篇だけでなく、実際の信仰生活の中で、迫りくる危機のなかで、「神様、早くして」という祈りをしたことが何度かある。神様に「遅刻するわよ」とせかすのは失礼な感じがしなくはない、「神のときがある」とは思いつつも、そう叫ばないではいられないときというのが、確かにある。下手をすると、サウルが出陣前にサムエルが来なかったときに自分でいけにえをささげたという過ちに陥りなねないぎりぎりのところ。・・・詩篇は、タテマエの世界ではなくて、リアルな祈りの世界。
 
 ところで、これはメシヤ詩篇のひとつということで、7,8節がヘブル書に取り上げられている。

40:7 そのとき私は申しました。
 「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。40:8 わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」

 だとすると、御子イエスはゲツセマネで、あるいは、十字架の上で、父を呼び求めるとき、この詩篇40篇を意識していらしたのだろうか。