苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン2月11日  種を蒔こう

詩篇126:5,6

涙とともに種を蒔く者は、
喜び叫びながら刈り取ろう。
種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、
束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。(新改訳)


涙をもって種まく者は、
喜びの声をもって刈り取る。
種を携え、涙を流して出て行く者は、
束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。(口語訳)


涙とともに播くものは歡喜とともに穫らん その人は種をたづさへ涙をながしていでゆけど禾束をたづさへ喜びてかへりきたらん(文語訳)


涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる。 (新共同訳)

<感想1>
 訳語の特徴としては、新共同訳がnasaを「背負う」と訳している点。他の訳は「携え」「かかえ」と訳している。視覚的イメージがかなりちがう。
 涙と喜びのコントラストが印象的な詩篇だけれど、大事なことは泣くこと、涙を流すことではない。大事なことは種まくこと。種まき続けること。泣くだけで蒔かねば何事も起こらない。泣いても笑っても種を蒔き続けよう、と自分の魂に命じる。
 たとえ私が刈り取ることができなくても、後に誰かが刈り取る日があるかもしれぬ。「それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」(ヨハネ4:36)


<感想2>
 126篇は「シオンの虜を主帰せし日 われらは夢見るごとくなりき 」と歌うもので、バビロン捕囚というありえないことが起こった神の奇跡的摂理の一篇です。
 遠い故郷を思いながら、涙流しつつバビロンの流れのほとりの畑で労苦した日々は無駄ではなかったという感懐でしょうか。しかし、バビロンからの解放は、その労苦の報いではない。彼らがまじめにやっていたから、クロス王が彼らを解放してやろうと宣言したわけではない。解放は、ただ、神の主権的な王の心に対する働きかけの結果でした。なのになぜ、後半は「涙流しつつ蒔く者らは喜びと共に刈り取るべし」なのでしょう。
 そもそも農業では倦まずたゆまず働いて、それが必然的に報酬に結びつくことではありません。どんなに働いても、日照りのときは涙を流し、寒さの夏はおろおろあるくほかない。ごく身近に労苦している農業者の兄弟を見ていて、つくづくそう思います。不作のときには慰めのことばもありません。農業者にとって、もともと収穫は労働への報酬でありながら、神の恵みです。(ほんとうは農業者だけではないのですが)
 そういう意味で、126篇の前半と後半は緩やかに結びついているような気がします。