苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

和解

2コリント5:18−21

5:18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
  5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

序 クリスマスおめでとうございます。クリスマスは、神様が私たちに和解の手を差し伸べてくださった日です。お読みした聖書箇所には、和解ということばが5回も繰り返されています。テレビドラマなどで、たとえば夫婦が「歯磨きのチューブの絞り方が気に入らない」というような小さなことをきっかけに争いが始まり、溝が深くなり憎みあって、ついに離婚を考えるまでになってしまった夫婦が、立ち止まってよく考えたら、「ことは歯磨きのチューブだったなあ」と気がついて、たがいに涙を浮かべて握手をして仲直りするというような場面を見ると私たちはほっと胸をなでおろすものです。和解ということはすばらしいことです。
 しかし、聖書が私たちに伝えている和解とは、人と人との和解ではなく、神と人との和解です。


1 争いがあることを認める(紛争性)

 先日法律を専門に勉強された先輩牧師に、「和解」ということばについて教わりました。和解の要件は三つあるというのです。紛争性、互譲性。紛争終結の合意です。第一の要件は「当事者間に争いが存在すること(紛争性)」、第二の要件は、「当事者が互いに譲歩すること(互譲性)」。第三の要件は「争いを解決する合意をすること(紛争終結の合意)」ということです。この三つがそろわないと和解ということは成立しません。
 第一の要件「当事者間に争いが存在すること(紛争性)」についてです。誰かと誰かを仲直りさせようとして、まず厄介なことは片方もしくは両方の当事者が「いえ、争いなんかありませんよ。私はあの人のことなんか、もともとなんとも思っていないんですから。」とか言って、そこに争いがあることを認めないということです。もめている夫婦なんかで、結構こういうケースがあるものです。夫婦が「あの人のことなんか、もともとなんとも思っていない」としたら、それは大問題ではないですか。自分は絶対に正しいと信じているので、相手を自分が憎んでいる、恨んでいるという事実そのものを認めようとしないのです。客観的にみれば、そこに解決しなければどうにもならない現実があり問題があり、争いがあるのに、その現実を認めようとしないわけです。こういうケースでは、仲直りに導くことはとても困難です。
 私たちがすばらしい和解を望むならば、まず、そこに争いがあること、憎み憎まれるような関係があることを認めなければなりません。

 神が私たち人間に和解の手を差し出してくださっている、その和解が実現するためには、まず神様と自分との間に紛争があること、問題があることに気づいて、その事実を認めなければなりません。このことに気づかない、認めないという人が多いのです。
 自分は神様の前に正しく罪がないと思い込んでいるということです。なぜ自分は罪がないと思えるかというと、一つは人と比べて、「みんなやっている」と思うからです。あるいは、たとえば脱税をしても、新聞なんか読んで政治家の1億円の脱税がばれたとかいうのを見て、「おれは10万円くらいのものだ」というように言い訳をしてごまかしてしまう。目くそ鼻くそを笑うみたいなものです。1億円だろうと、10万円だろうと、1000円だろうと、神様の基準に照らせば盗みは盗みです。十戒には「盗んではならない」であって、「10万円より多く盗んではならない」ではないのです。
 また神様の前にある自分の罪が分からないという人は「一回だけだ」といういいわけをする人です。でも神の戒めに「二回以上盗んではならない」とはありません。ただ「盗んではならない」と神様はお命じになっています。ですから、一回でも盗めば、それは神の前では盗みであり、罪なのです。
 これは盗みだけの話ではありません。「盗んではならない」と命じた神様は、「殺してはならない」「姦淫してはならない」「あなたの父と母を敬え」「偽証をしてはならない」「あなたはわたしのほかに他の神々があってはならない」とも命じたからです。
 そして、「罪から来る報酬は死です。」と聖書は教えています。罪を抱えたままでは、聖なる神と断絶状態であり、最終的には、死後に神の法廷に立たせられて、罪を暴かれて神様のいらっしゃらない永遠の滅びに陥ってしまうことになります。
 神様と和解するためには、私たちはまず、神と私たちの間には争いがあり、正義の神の前に自分は罪ゆえに滅ぶべき者なのだと認めなければなりません。


2 当事者が互いに譲歩すること(互譲性)

 法律の世界で、人間と人間のあいだで和解が成立するための第二の要件とされるのは、「当事者が互いに譲歩すること」です。夫婦が争っているとしたら、夫が「俺が悪かったよ」と言ったら、妻が「いえ。私こそ言い過ぎたのよ。ごめんなさい。」このように、お互いに自分の非を認めることが和解における第二の要件です。そうして、夫婦喧嘩ということではあまりないでしょうが、損害賠償のようなことが必要な場合には、お互いにその賠償をし合うということが必要です。
 ところが、もし片方が「俺が悪かったよ。」と言ったときに、もうひとりが「そうよ、あながた100パーセント悪いのよ。私は100パーセント正しいの!」と叫んだらどうでしょうか。そこには和解は成り立ちません。人間同士の和解のばあい、互いに折れるということが必要なのです。

 では、神様と私たちの和解のばあいはどうでしょうか。神様が私たち人間に差しだしてくださった和解は、人間と人間の場合とは、違うところがあります。人間と人間の場合には、当事者は両方とも責任の軽い重いの違いはあるでしょうが悪いのです。片方が100パーセント悪いというのは非常にまれでしょう。けれども、神様と私たちの関係のばあいは、神様に造られながら神様に背を向けて、神様に感謝もせずに自分勝手に生きて、憎んだり、盗んだり、反抗したり、殺したりしている人間のほうが一方的に悪いわけです。神様はなにも悪くありません。
 ところが、まったく悪くないほうの神様が、譲歩してくださったのです。その譲歩が、クリスマスにお生まれになった神の御子イエス・キリストです。やがてイエス様は長じて、30歳になると3年間の公の生涯に入り、病んでいる人をいやし、友のない人の友となり、完全な愛のご生涯の後に、十字架にかけられて処刑されました。その時、イエス様は「父よ。彼らをゆるしてください。彼らは自分で何をしているのかわからないのですから。」と祈られたのです。
 イエス様の完全な愛と正しさを憎んだ人々が、悪魔にそそのかされて。イエス様を十字架につけて殺したのですが、神様の知恵は不思議です。神様は、このイエス様の十字架の出来事によって、私たちの罪の賠償をしてくださったのです。この知恵は、悪魔も知らなかったそれは永遠の昔からの神様のご計画でした。

5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

と記されているとおりです。


3 紛争終結の合意

 争いが解消し、和解が成り立つための第三の要件は、両者がそこで争いの終結について合意することです。たとえば夫婦ならば、「俺が悪かった」「いいえ、私も悪かったのよ」とお互いに譲りあった後、「じゃあ、もうこの件は終わりにしよう。仲直りだ。」とすることです。
 あるいは、公の裁判所であれば、調停する人が用意した和解の合意契約文書を差し出して、両方がその和解案を受け入れて、双方がその和解のための賠償の義務を誠実に果たしあうことになります。
 このようにして争いが終わった、ゼロになったことを合意して確認することは大事なことです。そうしないと、蒸し返しが起こります。あるクリスチャンではない方と話をしていました。夫婦喧嘩なんかしそうに見えないご夫婦だったのですが、やっぱり喧嘩をすることはあるというのです。「喧嘩になってしまったときどうするんですか?」と聞いたら、三日ぐらい口をきかないで過ごして忘れるのを待つというのです。でも、これはよくありません。10年経ったとき、「10年前の何月何日、あなたはあんなこと言ったでしょ!」「5年前の何年何月何日にはこうも言ったわよ。」「それか・・・・」と、紛争解決合意をしないと累積していくからです。恨みが心の底にわだかまったままになるのです。ちゃんと、「ごめんね」「こちらこそごめんね」と言って、ゼロにしないとお互いの心の底に累積債務が残っていて、スイッチがはいるとバーッと噴きだして収拾がつかなくなります。

 神様は二千年前私たちに和解のために御子イエス様を与えてくださいました。御子は神であられながら、人となられて人間の代表として、ご自分の身をもって永遠の刑罰を受けてくださり、その刑罰をすべて受け終わったことの証しとして、三日目に復活されたのです。そうして、この和解の務めを使徒・伝道者たちに託して遣わされたのです。

  5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

 
結び
 今、私は、使徒パウロと同じように、イエス・キリストの十字架による和解を、みなさんも受け取ってくださいと差し出しています。すでにその神様からの和解提案をここにいるほとんどのみなさんは、受け入れていらっしゃいますが、もし、まだだというかたがいらしたら、受け入れてください。
まとめますと、大切なことは「ごめんなさい」と「ありがとう」の二つです。
 第一は、神様の前に自分は問題があるのだということを認めることです。神様の戒めに照らすときに、自分は偶像は崇拝してきたし、親には無礼な態度をとってきたし、殺さないまでも心で人を憎んだことはあるし、警察にはつかまったことはないけれど盗みも働いたことはあるし、嘘もついたことがあるし、人の幸福は妬んだことがあるし・・・とさまざまな問題、罪があることを神様の前に認めることです。「ごめんなさい」と。
 第二は、悪くない神様が一方的に差し出してくださった譲歩である、イエス様の十字架の贖いを受け取ることです。つまり、私が神様の前に犯した数々の罪を償うためにイエス様が十字架で苦しみ死んで私の罪を償ってくださったことを、感謝して受け取るのです。「ありがとうございます」と。