経済において自由と平等という二つのことは矛盾する。人々を自由放任すれば、金持ちは金の力に物を言わせてますます金持ちになり、貧乏人は金持ちに金を搾り取られてますます貧乏になる。金のある都市に金は集まり、貧乏な地方の町村はますます貧乏になる。富める国はますます富み、貧しい国々はますます貧しくなる。自由主義経済(市場原理主義)と称して、経済活動をいっさい規制なしにして放置すれば、弱肉強食が起こり、貧富の格差が広がるのは必然である。そして、弱肉強食が極端に進むと、弱者がやせ細りすぎて、結局強者も飢えてしまうということが起こってくる。つまり、消費者が自由になるお金がないのでものを買えなくなり、景気が低迷して金持ちも困ってしまうのである。かつての産業革命時代の暗黒のイギリス、そして今、十数ヶ月実質賃金が下がり続けて消費動向が低迷している日本の経済状態がそれである。
では、平等主義ではどうか。生活手段の私有は認めるが、生産手段(工場、田畑)は国有化することで平等を実現できるという理想がある。だが、それを実現するには、資本家から工場や田畑という生産手段を取り上げ、彼らを強制学習収容所に入れて平等思想に洗脳しなければならない。また、さまざま能力の差をもって生まれてくる子どもたちを平等主義に洗脳し続けねばならない。なぜなら、人は生まれながらに能力や財力において不平等だから、それを強制的に正さねばならないからだ。というわけで、極端な平等社会を実現しようとすれば、政府が強力な警察力を背景として国民の自由を抑圧するほか方法はないのである。これは論理的必然である。かつてのロシア革命、毛沢東革命、ポルポト政権のように。
自由と平等を両立させることはとてもむずかしい。むずかしいが、どちらも人間社会にとって大事なことなので、バランスをとらなければならない。つまり、かつて存在した共産主義諸国のように平等を求めるのに熱心すぎて思想統制に走ってはいけないし、現在の市場原理主義者のいうように自由を求めるあまりに弱者を保護する規制をむやみに廃止してはいけない。経済政策については、自由主義も平等主義も願い下げである。「主義ism」ということばには中毒という訳語もある。
結局、自由と平等のバランスを取りつつほどほどの規制をするのが正解である。現在、日本の経済格差が急速に広がってきたのは、自由中毒経済政策のせいである。ベルリンの壁崩壊後、自由主義経済を牽制する政党や労働運動が弱体化してしまい、自由主義政策が暴走しているのである。
これは例の<多と一の両立>という、おにぎりの課題と同じである。おにぎりはゆるく握りすぎるとバラバラになり、きつく握りすぎるとダンゴになってうまくない。自由にするとバラバラになるから、自由は「多」の原理であり、規制をかけるとまとまるから、平等とは「一」の原理である。多と一の両方が大事。経済政策も、「存在論的にすぐれたおにぎり」のようであることが肝要である。
参照「存在論的にすぐれたおにぎり」
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20091114/p1