苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

読了 渡辺京二『逝きし世の面影』


 渡辺京二『逝きし世の面影』、合間合間に読んで、ようやく読み終わりました。600ページ近くもあるので、手間がかかりました。とはいえ、内容は幕末・明治初期にこの国を訪れた西洋人たちが書き残した興味深い文章の引用に満ちていて飽きさせません。・・・でなければ、読み通すのはむずかしい分量です。
 面白いのは、庶民の生活ぶりがいろいろと記されていることです。江戸庶民はやたらと清潔好きで銭湯に行き、西洋人が表に来ているというと、老若男女が一糸まとわず飛び出してきて、西洋人をどぎまぎさせる。海山の自然との交歓のなかに楽しく適当に仕事をして生きているけれど、その耕した田畑は草一本なく美しく、職人の仕事は神業に近い。やたら物見高くて西洋人が泊まった宿屋の部屋は、障子が穴だらけになってしまう。また、大人たちは無類の子ども好きで子どもと遊びに興じる。天変地異や大火に見舞われても嘆くより笑っており、機嫌よく復興を始める・・・などといった姿。深刻な宗教心は皆無で、遊びと信心がいっしょになっている。男尊女卑社会といわれながら、とくに庶民階級の家庭では、多くの場合、実権は有能快活な妻がもっている。
 西洋の工業化文明によって変容してしまい、江戸文明はたしかに「逝きし世」となってしまった面は多いのですが、それでも今日の日本人の生き方に通じるところがあって、なかなか面白いです。
 ああ、そうそう、それから、日本の馬はどいつもこいつも性悪で喧嘩はするし、人は振り落とす。道路にあちこち寝そべっている野良犬を、大八車や人力車はみんな怒りもせずによけてゆく。日本人は、馬も犬も家畜としてしつけることができない。人間と動物の境目がよくわからないから、というのも興味深い指摘でした。


撮影 玉村康三郎