苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

バベルとペンテコステ

 バベルの塔の出来事とペンテコステの出来事とが対応関係にあるということは、学生時代にF.シェーファーGenesisを読んで、教えられたことだった。バベルの事件で、人類の傲慢に対する神のさばきとして人類のことばが分かれ、人類はバラバラになり混乱に陥ってしまった。けれども、ペンテコステの出来事によって、世界のあらゆる民族国語に福音が伝え始められ、世界の民はキリストにあって再び一つの民とされることになった。そして、それはバベルの事件の後に与えられるアブラハム契約の成就でもある。おおよそそういう趣旨である。
 だが、私には納得できない部分があった。それはペンテコステにおいて世界の民族がひとつにされると言っても、民族・国語の多様性と、コミュニケーションギャップは、福音によって解消されないではないかという点である。それが解消されるのは終末の完成の御国においてなのだろうか、かの日には言語は一つになり、一民族に戻るのだろうかという疑問である。この疑問は30年間くらい胸のうちにあった。
 先週、日本同盟基督教団世界宣教50周年記念大会の最初の集いで斎藤五十三台湾宣教師が語られたメッセージによって、その謎が氷解した。うれしかった。神は、バベルへのさばきとして与えた呪われた民族国語への分裂を、キリストの福音と聖霊の注ぎによって祝福された多様性とされたのだということである。多様な民族国語文化が、キリストにあって混乱するのでなく、調和して一つとされる。キリストの福音は、呪われた分裂を祝福された多様性とするのである。
 そして、その多様性は終末においても祝福されるようである。

「諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。」黙示録21章24節

 神がキリストにあってもたらされる救いは単に堕落前への回帰ではなく、堕落前に目指されていた究極的完成を意味している。だから、黙示録末尾に記される御国のようすは、堕落前よりもさらに成熟し祝福され完成された豊かな姿をしている。