苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

御霊に満たされ続けなさい(聖霊について その3)

エペソ5:15-21

1 時を贖い取りなさい

  5:15 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、 5:16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。


 「賢い」ということばは、特に「誘惑に陥りひどい目に遭うことがないように、注意深い」という意味です。賢くない人というのは、真理が見えなくなっている闇の中にあって、本当には価値のないもの、むなしいもの、罪深いことに自分のたった一度の人生を浪費している人々のことを意味しています。
 それに対して、「賢い人」というのは、神様に与えられたこのたった一度かぎりの人生を、神様の目の前で永遠の価値あることのためにふさわしい生き方を選択している人々のことということになります。
 
 そのために、どう生きるか?「機会を十分に生かして用いなさい」と言います。「機会を生かす」と訳されたことばは、文字通りには、「時を贖いなさい」という意味です。「時」ということばには、ギリシャ語ではクロノスとカイロスというのがあって、クロノスは言わば時計的な時間であり、カイロスというのは「特別なチャンスとしての時」です。たとえば、稲が実を結ぶためには、稲が花を咲かせているほんの二日間ほどであると聞いたことがあります。その時にうまく受粉すれば、秋には豊かな収穫を得られますが、その機会をのがすとお米はろくすっぽとれません。そういう時をカイロスといいます。ですから、ここでは「機会」と訳してあります。
 そのカイロスを贖い取りなさいというのです。相当の犠牲を支払って買い取りなさいというのです。
 「悪い時代」はあなたの人生を浪費させるために絶えずつまならいもので誘惑してきます。見ても見なくてもよいもの、聞いても聞かなくてもよいもの、いなむしろ罪深いことで私たちの限られた時を奪い去るものがいろいろあります。無駄なこと、神様の前ではむしろ罪にあたることのために、自分の人生の時を浪費するのをやめて、むしろ犠牲を払って、神様がくださったチャンスを買い取って神の前で価値があることのために、天に宝を積むことになることのために十分に活用しなさいというのです。
 たとえば、主の日は一週間のうちのカイロスです。また、若い日にしかすることのできないバイブルキャンプでの奉仕の経験であるとか、二年、三年に一度開かれる宣教大会に出かけるとか、これらのチャンスを得るには、それなりの犠牲を払うことが必要です。けれども、そうして贖いとったチャンスによって生涯にわたる豊かな霊的な実を得ることになるのです。
 

2 御霊に満たされるとは

5:17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
5:18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

 人生一回限りであり、神の前に価値のないもの罪深いものの誘惑は、私たちの真の意味で永遠にわたる神の前での豊かな人生のための霊的なチャンスを奪い取ろうとします。ですから、愚かにならないで、神のみこころを悟りなさい。酒に酔わないで、御霊に満たされなさいとみことばは私たちに命じています。では、御霊に満たされるとは、どういう状況のことをいうのでしょうか。
 第一に、御霊に満たされるというのは、賢く悟る人となることなのだということです。ときどき御霊に満たされるという経験は、まるで酔っ払って、感情的に高ぶって理性の働きがまひしたようなトランス状態に陥ることであるかのように思い込んでいる人がいます。きっと、この世の変てこな霊能者が悪霊に満たされて、「キエーッ」とかいうのから、類推しているのかもしれませんが、それは誤解です。御霊に満たされると、愚かな人が賢い人なり、神のみこころを悟るのだと聖書は教えています。御霊に満たされると、サタンやこの世が提供していたおごちそうが実は糞土にすぎないことに気づいて、真に価値あるすばらしい祝福を求めるようになるのです。御霊に満たされると、その人の眠りこけていた理性は目がさめて、今までは無神論こそ真理だと思い込んでいた愚かさから解放されて、この全世界は天体から小さな野の花や虫に至るまで、知恵と力に満ちた神の作品であるという真理に目が開かれるのです。

 第二に、御霊に満たされるというのは、酒に酔うことに似た面と違う面があります。「酒に酔ってはいけません、御霊に満たされなさい」とあるからです。AでなくBという場合、AとBの類似性と違いがあります。「私はバナナでなくりんごが好きです」というのはバナナとりんごは果物という同類だけれど、別種だということでしょう。「私はバナナでなく、ポルシェが好きです」というのはトンチンカンです。
 私自身は酒は飲まないので、酒に酔うとどういう気持ちになるのかを体験としては知りませんけれど、酒飲みだった父親を知っていることから推測すると、酒に酔うことと御霊に満たされることの似た面というのは、解放感であろうと思います。会社でいやなことがあってストレスがたまっている時にサラリーマンは酒を飲んで解放感に浸るわけです。
 しかし、酒と御霊の違うところは、酒の場合には理性や自制力を麻痺させてしまうので放蕩がともなうという点です。酒に酔うと、自制心がなくなって暴言を吐くとか、性的な過ちを犯すとか、暴力をふるうとか、交通事故で人を死に至らせたり、健康を害したりするということが伴います。けれども、御霊に満たされる場合には、理性・自制心は目覚めて賢くなった上で解放感と喜びに満たされます。御霊に満たされると、聖書によって神様がどれほど素晴らしいお方であるかという真理を味わい、キリストとともにある人生がなんと幸いかと嬉しくなり、神の造られたさまざまな被造物を通して神様の知恵、力、愛、清さの表われに感動するのです。いいことずくめです。

 第三に、御霊に満たされるというのは、一回限りのことではなく、反復あるいは継続的なことです。「御霊を受ける」ことは一生のうちに一回限りなのですが、御霊に満たされることは繰り返されることです。ですから、この個所はていねいに訳すならば「御霊に繰り返し満たされなさい」あるいは「御霊に満たされ続けなさい」となります。
 あるクリスチャンがいったんは御霊に満たされる経験をしたとしても、いつのまにか御霊に枯渇したような状態になってしまうことがあるのだということです。はじめの愛を忘れてしまうということです。時にはひどくすると、クリスチャンではあっても「肉に属する人」という状態になってしまって、神様のことを知らないこの世の人々と同じようなむなしさを感じてしまうという場合さえあります。バテシェバ事件のダビデのように。
 だから、そういうことにならないように、御霊に満たされつづけなさいと聖書は教えています。


3 御霊に満たされるには、御霊に満たされたなら

 では、御霊に満たされるには、満たされつづけるにはどうすればよいのでしょうか。19節から21節には、御霊に満たされることに伴うことが書かれています。御霊に満たされるにはこれらのことをたいせつにすべきであり、また御霊に満たされている人たちにはこういうことが伴います。文法的には、ここは分詞のかたちで「御霊に満たされなさい」という動詞に掛かっている分詞構文です。

5:19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
5:20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
5:21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。


 御霊に満たされるには、また、御霊に満たされたいならば、まず、19節にあるように、主にある兄弟姉妹たちとともに、お互いに恵みを分かち合い、主に向かって心からの讃美の歌を歌うことです。信仰は神様と私の関係ですから、教会は関係ありませんといって孤立を好む人がいるとしたら、その「信仰」はみことばにかなった正常なものではありません。父と子と聖霊の愛の交わりの神様は、私たちをご自分のかたちに似せて造ってくださいましたから、私たちは人格的な交流のうちにあって健全な信仰を育てることができ、愛することを学ぶことができます。地上にある兄弟姉妹を愛することがない人には、目に見えない天の神を愛することはできないのです。
 炭火というのは一つでは消えてしまいますが、二つ三つ、四つ五ついっしょにしておくとカッカと燃えるものです。私たちの信仰の炎も、ひとりぼっちでいると消えてしまいますがともに集い主を讃美し励ましあうならば、かっかと燃え続けるのです。

第二に、御霊に満たされ続けるには、「5:20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝」することです。いつでも、すべてのこと、というのがポイントです。「時々、うれしいことだけ」でなく、「いつでもすべてのことについて」なのです。生活していれば、嬉しいこともあれば、悲しいこともある。自分にとって都合のよいこともあるし、不都合なこともある。でも、どちらの場合でも、主イエスの名によって父なる神に感謝をささげるのです。御霊に満たされて生きる人は、心から感謝が絶えることがありません。
 健康なときに感謝する。当然よいことです。でもおなかが痛いときにも「神様おなかが痛いです。感謝です。」とイエス様の名によって感謝をささげてみる。そうすると、きっと天の窓が開かれるということをあなたも経験するでしょう。不平不満でいると天の窓が閉じていますが、感謝をささげるときに天の窓が開くのです。そして、御霊にいよいよ満たされることができます。喜びと平安と確信と力が満ちてくることを、あなたも経験するでしょう。
 「すべてのこと」を働かせて益としてくださる神様ですから、私たちは信仰をもってすべてのことを感謝するのです。そうすると、御霊に満たされて生きることができます。

 第三に、「5:21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」という少し不思議な表現です。御霊に満たされて生きるとき、私たちはキリストを尊びつつ、互いに謙虚に生きる者となるのです。またキリストを尊びつつ、お互いに耳を傾ける謙遜さをもっていれば、御霊に満たされることができます。
 御霊に満たされると、喜びと確信とが与えられます。肉(自己中心の性質)から出た喜びや確信というのは、えてしてひとりよがりなものです。頑固で誰のいうことも聞こうとしません。しかし、御霊がくださる喜びと確信には、謙虚な心がともなうものなのです。御霊に満たされているならば、兄弟姉妹が自分の間違いを指摘してくれるときに、謙虚に耳を傾けることができるものです。
 「キリストを恐れ尊んで、互いに」とあります。これは私たちクリスチャンのお互いの交わりの真中には常にキリストがいらっしゃることを忘れないようにしなさいということです。肉的な性質はキリストを間に置くことなく、直接的な交わりをすることで親しくなったような気分になるものです。しかし、キリストを間に置かないような交わりは、べたべたしていて必ず何か悪臭がしてくるものです。相手を支配しようとしたり、支配されようとしたりするような、立ち入ってはならないところまで立ち入ったり、立ち入らせたりするそういうものにいつかなってくるのです。いまふうの言い方をすれば、共依存的な関係です。私たちお互いの間には、キリストがいらっしゃるということを忘れずに、いるときに私たちはお互いを尊重することができます。サラサラとしていて、でも、愛を支えあうことができる交わりというのは、キリストを恐れ尊んで互いにしたがう、そういう関係です。
 御霊に満たされることには、こうしたキリストを中心とした、お互いに謙遜になるというキリスト者の交わりが伴うものです。


むすび

 第一に、ともに集って主を心から讃美する交わり、第二に、いつでもすべてのことをキリストを通して神様に感謝するという信仰の祈り、そして、第三に、キリストを恐れ尊んで互いに謙遜に耳を傾けるという生き方。これらが御霊に満たされることに伴うことがらです。御霊に満たされつづけるには、これらの実践が大切なのですね。
 キリスト者として私たちが実を結ぶためには、御霊に満たされなければなりません。御霊に満たされることなしに、実を結ぼうとしても、それはまったく無駄な努力です。くたびれるだけです。ですから、すでに受けている御霊さまが満ちてくださる生き方というのを、このところから学びました。「御霊に満たされ、満たされつづけなさい」
 クリスチャンにとって、御霊に満たされることが、教会、夫婦、親子、仕事、社会すべての原動力となります。御霊に満たされましょう。