苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

モーセ誕生と神の備え

出エジプト1:22−2:10


 2007年6月、エジプト考古学庁が、ツタンカーメン発掘以来の重大な発見について発表しました。王家の谷にあるKV60と呼ばれる小さな墓で発見された身元不明だったミイラのDNA鑑定をしたところ、それがエジプト新王国時代の第五代の女王ハトシェプストのミイラであることが判明したというのです。
 本日は、この女王とモーセ誕生にまつわる話です。(エジプト脱出の時期を15世紀頃とする前期説に基づいてお話します。)


1 歴史的背景


 紀元前15世紀半ば、イスラエルの民は奴隷とされていたエジプトから脱出を果たします。その指導者モーセはどのようにして誕生し、育てられたのでしょうか。
 時代背景を簡単に復習します。ヤコブの時代にイスラエルの民はエジプトにくだりました。移住の当時、エジプト王国はヒクソス朝という異民族による侵略王朝であり、ヤコブたちはセム人でありヤコブの息子ヨセフは宰相でもあったので、彼らはゴシェンの地で平穏無事に暮らしました。しかし、やがてヒクソス王朝は倒されて、エジプト人たちによる新王国時代が始まります。異民族王朝を倒して成立した新王国(1570−1070BC)の王たちは自然、国粋主義的な傾向がありました。増え続けるイスラエル民族に脅威を感じて弾圧しました。出エジプト記1章の王は生まれた男児を皆殺しにしようとさえ考えて、ナイル川に捨てよと命令をくだしました。
 この残忍な王はいろいろな状況証拠からトトメス3世だったと目されます。このトトメス3世は「古代エジプトのナポレオン」いや、ヒトラーのような王で、対外的には侵略戦争を展開して、北はユーフラテス川の上流域、シリア、パレスチナ、南はエチオピアまで支配下に収め、国内においては異民族であるイスラエルを弾圧したのでした。ジェノザイド、民族浄化政策です。
 ところが、本日の箇所を見ると、こうした暴君の支配下にあったエジプトであったにもかかわらず、「パロの娘」と呼ばれる女性が登場して、赤ん坊のモーセを助けます。そんなことがありえるのだろうか?と疑問を抱く人もいそうです。おとぎ話みたいだなあと感じる人々も多いかもしれません。しかし、エジプト第18王朝の系図をよく調べると、これには背景があったことがわかります。少し系図の復習をしておきましょう。

<エジプト第18王朝 出エジプト記1,2章関連系図
正妃――――①イアフメノス1世
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 ②アメンホテプ1世―――側室
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正妃―――――③トトメス1世―――側室
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⑤正妃ハトシェプスト――④トトメス2世―――側室
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           正妃―――⑥トトメス3世
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            ⑦アメンホテプ2世

 系図を見ると、二代目以降、王の名としてトトメスとアメンホテプの二種類があることに気づきます。アメンホテプというのは正妃から生まれた子が王となった場合に付けられる名ですが、トトメスは側室から生まれた子が王となった場合に付けられる名でした。側室から生まれた男児は、正妃から生まれた血統証付の皇女と結婚することで、王と名乗ることができるという立場でしたから、嫁さんに対して頭が上がらないということにもなりかねなかったのです。
 もうひとつ、王位継承については古代エジプトでは王は男子がなるものと決められていました。ところが、トトメス1世は正妃からは娘ハトシェプストしか得ることができず、側室から男子を得ました。こうして生まれた男子は正式の王位継承権のある異母姉ハトシェプストと結婚してトトメス2世となりました。
 ところがトトメス2世も正妃ハトシェプストとの間には子を得ることができず、側室との間に男子を得ました。これが後のトトメス3世です。彼は実母を早く失ったようで、ハトシェプストが継母となります。しかし続いて父トトメス2世も息子3世が6歳のときに死んでしまいます。父トトメス2世は息子が王となるようにと遺言して死んだのですが、6歳で政治をとることは無理だということで、異例のことですが、トトメス2世の妻であり、3世の継母となったハトシェプストが女王となるのです。トトメス3世も共同統治にあたる王でしたが、実権はハトシェプストが長く握って国を治めました。その間、ハトシェプストは対外的な戦争はひとつも行わない平和外交を展開しました。
 他方、トトメス3世は幼いころはまあよかったのでしょうが、やがて自分は力があるのだぞと思うような年齢になると、継母であるハトシェプストを「目のうえのたんこぶ」のように感じて、深く恨むようになったようです。彼がどれほどハトシェプストを恨んでいたかということは、ハトシェプストのルクソール葬祭宮殿にあった彼女の名とレリーフを削り取ったということから明らかです。また、ハトシェプストの死後、彼女のミイラを王のミイラを安置すべき場所から他に移してしまったようで、ずっと行方不明になっていました。 
 とにかくトトメス3世は若い日、政権の中枢から遠ざけられて、軍事畑を歩まされましたが、やがて長じるとハトシェプストから実権を奪います。そして彼はハトシェプストとは正反対に、対外遠征を在位中に17度も行い、エジプトの勢力をユーフラテス川上流からエチオピア方面にまで拡張しました。そして、国内では国粋主義的政策をとって、国内の異民族イスラエルの民を弾圧しました。前王であり温和な政策をとったハトシェプストがそういうトトメス3世の政策に心を痛めていたことは想像に難くありません。出エジプト記1章後半から2章の出来事には、そういう背景があったと考えられます。
 こうしたことを考えると、出エジプト2章に登場する「パロの娘」と呼ばれている女性は、ハトシェプストその人であったと考えるべきでしょう。系図をごらんください。私たちは「パロの娘」という呼び名から、うら若い女性を想像してしまいがちですが、前前王の正妃の娘として王位継承権をもつ正しい血統を受け継いだ女性という意味で、「パロの娘」と呼ばれていると理解すべきところでしょう。側室から生まれたのではなく、唯一の正統的な「パロの御姫様」という意味です。年齢は四十代半ば。王としての実権はトトメス3世に移っていたころだったと思われます。彼女は1483年ころに死んでいます。
 2007年に考古学上の大発見がありました。ハトシェプストのミイラが発見されたのです。エジプト新王国第18王朝の王たちのミイラは、きちんと残されてきたのに、実はハトシェプストのミイラだけは所在が分からなくなっていました。それは彼女を恨んだトトメス3世がハトシェプストの葬祭殿の銘文や肖像を削り取ったと同時にしたことであろうと思われます。ところが、2007年になって、それまで名のわからなかったあるミイラがそれであるということがDNA鑑定によって判明しました。彼女は身長165センチ、小太りの50歳くらいの人でした。歯周病、糖尿病、腰骨に達する悪性腫瘍があったそうです。歯周病で抜歯したことで菌が入って、それで亡くなったということまでわかっています(Wikipedia)。
 出エジプトの「パロの娘」は、ふっくらとした風格のある、そうですね、わたしの勝手なイメージで言うとその年齢のころの高峰三枝子さんのような感じの女性だったのではないでしょうか。

ハトシェプスト女王


2 モーセの母と姉と王女


 イスラエルに生まれた男児を虐殺させようとして、助産婦に命令したパロでしたが、彼女たちの知恵ある抵抗にあって、あての外れたパロは、今度は、男の赤ん坊はナイル川に捨てよという命令をくだします。

1:22 また、パロは自分のすべての民に命じて言った。「生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」

 こうした危機的な状況のもとで、エジプト脱出の指導者となるモーセは生まれてきたのでした。

2:1 さて、レビの家のひとりの人がレビ人の娘をめとった。 2:2 女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠しておいた。 2:3 しかしもう隠しきれなくなったので、パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いた。
2:4 その子の姉が、その子がどうなるかを知ろうとして、遠く離れて立っていたとき、
2:5 パロの娘が水浴びをしようとナイルに降りて来た。彼女の侍女たちはナイルの川辺を歩いていた。彼女は葦の茂みにかごがあるのを見、はしためをやって、それを取って来させた。 2:6 それをあけると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をあわれに思い、「これはきっとヘブル人の子どもです」と言った。

 赤ん坊が産まれたけれど、ナイル川に捨てることなどできなかった親は、三ヶ月は隠したのですが、泣き声は大きくなってもう隠し切れなくなりました。母親は祈りました。祈るうちにひらめくものがありました。それは、この赤ん坊を、前のやさしい女王様の手にゆだねてはどうだろうかということです。女王様がいつも水浴びに来られる場所を母は知っていました。そこで、決して、水が入ってこないように防水処理をした葦のかごに赤ちゃんを入れて、ナイルの川べりの葦の茂みに置くことにしたのです。
 そして、前の女王さまが来られて、どういうことになるかを娘のミリヤムに監視させたのです。実際、パロの娘、先の女王さまがいつもの場所に水浴びに来られると、侍女たちが葦の茂みの中のかごの中から赤ん坊の声を聞きました。かごを開いてみるとかわいい生後三ヶ月ばかりの男の子です。はたしてパロの娘は、かわいそうに思いこれはヘブル人の子どもだと察知しました。トトメス3世のヘブル人に対する民族浄化政策に対して、平和的なハトシェプストは心痛めていました。ですから、彼女はヘブル人の赤ん坊を救いだし、養子として育てたのです。暴君の命令に背いて、ヘブル人の子どもを救いだし育てることができたのは、彼女はパロの継母であり前王であったからこそ、パロも手を出すことができなかったからでしょう。
そして、彼女が赤ん坊を見つけて抱き上げるようすを見ると、隠れて赤ん坊を見守っていた赤ん坊の姉ミリヤムはお母さんに言われていたとおりに飛び出して、言いました。
2:7「あなたに代わって、その子に乳を飲ませるため、私が行って、ヘブル女のうばを呼んでまいりましょうか。」
 その様子を見て、王女はすべてを悟って言いました。2:8 「そうしておくれ」。王女はこの赤ん坊がヘブル人の男の子であり、この娘がその姉であり、これから連れて来ようとしている「ヘブル人のうば」というのは、この子たちの母親にちがいないと悟ったのです。悟りましたが口に出さないところが、賢いところです。
 こうして赤ん坊の母親が連れて来られました。王女は彼女に養育費まで払って赤ん坊を返してやるのです。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私があなたの賃金を払いましょう。」やがて赤ん坊は大きくなって王女の息子モーセとなって、エジプトの最高の学問を授けられて、遠い将来、エジプト脱出という難事業を成し遂げるために必要な知恵・訓練を授けられることになります。
 
 モーセの母と姉とエジプトの王女が口には出しませんが、すべてを理解し合って、このひとつの命を何とかして救い出そうとして協力して、そして成し遂げたのでした。身分も民族もあまりにも違うお互いですが、一人の赤ん坊を助けるためにいのちがけで協働をして、のちに出エジプトの指導者となるモーセの生きる道がそなえられたのでした。
 すべては神の摂理の御手でなされたことです。しかし、神はその摂理を、勇気ある、そして赤ん坊の命を助けたいという愛情に満ちた女たちを用いて実行なさったのでした。


結び 本日の箇所から三つのポイント


第一に、神は歴史の中に働かれ、御心を遂行してゆかれるお方です。ですから、歴史を探るときに、聖書の語っていることが見えてくることがあります。聖書は、いわゆる宗教書とちがって、歴史の事実を裏づけのあるものなのです。二十世紀になってオリエントの考古学が急速に発達することによって、ますます聖書の確かさ、その意味が明らかにされてきています。

第二に、神様は、後のリーダーモーセを救うために、女性たちをお用いになったことからの教訓です。モーセを生んだ母、その娘、そして立場はまったく違うのですが、エジプトの娘おそらくハトシェプストをもちいて、モーセを守り育てられたのでした。女性には、こどもの命を守りたいという「すべていのちあるものの母」(創世記3章20節)という特異な任務が神様から与えられているということを覚えたいと思います。女性は男性にくらべていのちに対する繊細な感覚をもっているのだと思います。男と女はそれぞれに賜物の違いがありますから、お互いにそれを尊重して家庭や社会を築いていくことが、神様のみこころにかなったことです。

第三に、神様は、後にエジプト脱出という難事業を行うリーダーとなり、さらに、モーセ五書という偉大な書物を記させるために、モーセを準備なさっていたということです。
 まず彼の命を救い、次に彼がエジプトの宗教に染まりきってしまわないように、実母のもとで育てられるようにと配慮されたことでした。さらに、彼はエジプトの宮廷で、当時、世界一の教育を受けることになったことです。モーセは文学も政治学法律学軍事学も学ぶことになりました。このように、神様は広い視野、長い計画をもって、用意周到にモーセの準備をされたのでした。こうした神の支配、導きを摂理とか配剤といいます。
 私たちは小さな者ですが、神様の愛を受けて、神様の配剤の下に生かされているものです。そのことをおぼえて、あわてず騒がず、しかし、勇気をもって主のみこころをこの地上でなしてまいりましょう。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」(ローマ8章28節)