苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

エジプト脱出の時期

 イスラエルの民がエジプトを脱出した時期については、紀元前15世紀半ばとする早期説と、紀元前13世紀とする後期説とがある。それぞれの説によって、出エジプト記1章に出てくるイスラエルを弾圧した暴君、エジプト脱出に際してモーセと対決したパロの名が違ってくることになる。

 後期説(13世紀説)では、出エジプト1章の暴君はラメセス2世。モーセと対決したパロは、ラメセス2世の子メルエンプタハということになる。
 後期説の根拠のひとつとされるのは、出エジプト1:11にこの王が「倉庫の町ピトムとラメセス」を建てたということ。考古学者はラメセス二世は大規模な建築を行い、ペルラメセスすなわち「ラメセスの家」という名の首都を建設している。このペルラメセスがすなわち、出エジプト記に見る「ラメセス」のことであるというわけである。この建設工事にかかわった役人が書いた「兵士とラメセスの大塔門に石材を運ぶアピルに穀物の割り当てを配給せよ」(パピルス・ライデン348号)という古文書も出ている。アピルというのが直接ヘブル人であったとするのは言語学的に難しいそうだが、ヘブルを含む人々であったと考えることができる。


 早期説(15世紀説)では、出エジプト1世の暴君は第6代トトメス3世であり、モーセと対決したパロは第7代アメンホテプ2世ということになる。
 早期説の根拠とされるのは、昨日書いた1列王記6章1節である。再掲載してみる。
イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王となってから四年目のジブの月、すなわち第二の月に、ソロモンは【主】の家の建設に取りかかった。」とある。
 ソロモンの在位は970BC頃、したがって、この数字を文字通りとれば、970足す480で1450年頃に出エジプト事件ということになる。
 早期説の魅力は、昨日書いたように、モーセ誕生にまつわって、パロの王女がハトシェプストであるということが推論されることである。彼女であったればこそ、あの暴君に抗ってヘブル人の子を救出し王子として育てるという通常考えればありえないことができたということである。


 後期説の場合、1列王記6章1節における480年という数字は、文字通りに読むべきではないと解説される。マラマットによれば「これは、一世代を40年と計算する聖書の計算法に基づく十二世代の類型的数字と思われる(詩篇95篇10節参照)。もし、より現実的な25年によって一世代を計算するならば、聖書の年代指示は300年の開きとなり、出エジプトは全13世紀中庸に起こったこととなる。」(マラマット『ユダヤ民族史1』p78)つまり12世代であるから、12×25年=300年。ソロモン在位970年スタートだから970+300=1270年つまり紀元前13世紀ということになる。
 ただ、筆者にはマラマットの「一世代40年」までの話はわかるのだが、「より現実的に25年」として計算しなおすというのが、飛躍していて納得できない。聖書の中に一世代25年で計算しているという事例がほかにもあるならば別であるが。読者でわかる方がいたら、教えてください。
 筆者としては、後期説はラメセス2世による首都ペルラメセスの遺跡発見にひっぱられすぎているように思われる。地名というようなものは、結構、どこにでも付けられ動くものであるし、王の名にちなんで町の名がつけられた可能性はもちろんあるが、逆に、地名にちなんで王の名がつけられた可能性もある。筆者には、今なお早期説(15世紀説)のほうが納得力がある。