苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

主は与え、主は取られる、主の御名はほむべきかな

 このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った、
「わたしは裸で母の胎を出た。
また裸でかしこに帰ろう。
主が与え、主が取られたのだ。
主のみ名はほむべきかな」。(ヨブ記1章20節)

 高校を卒業して浪人していた夏の終わり、友人の家に家庭集会のために来られた増永牧師に会った後、その友人が三浦綾子旧約聖書入門』を貸してくれ、イゾベル・クーン『神を求めたわたしの記録』という本をプレゼントしてくれた。それぞれに感銘を受けて、数日後、板宿商店街の岡本書店で口語訳の旧約聖書を買い求めて、ヨブ記1章を開いてみた。
 宗教というものは、弱い人間が自分の都合のためにつくりだした絵空事にすぎないと思っていた私にとって、財産も子どもたちまでも取り上げられたときに叫んだ義人ヨブのことばは衝撃だった。

 その半年ほど後、私は教会にかようようになり信仰を告白し、大学入学にともなって茨城県に転じて、土浦めぐみ教会に通うようになった。3年生のころだったろうか、下川友也牧師が来られての特別礼拝で、ヨブ記が説き明かされた。そのとき下川牧師は、「クリスチャンであれば、苦難の日にヨブのように告白すべきです。しかし、その信仰告白はためされます。」と話された。2章以降に延々と続くヨブの苦しみの意味である。