苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

リチャード・ボウカム『イエス入門』

 読後感メモ。

1.確認できたこと
 リチャード・ボウカム『イエス入門』という本を読み終えました。小さな本ですが、内容はぎっしり詰まっています。著者ボウカムは、現代英国の新約学の第一人者のひとりと目される人だそうで、友人のE牧師の恩師です。
 読み終えてみると、丹念に四つの福音書を何度か連続講解説教してきた説教者や、四つの福音書を二十回も三十回も百回も繰り返し通読してきたキリスト者にとっては、特別意外なこと、耳目を驚かせるようなことは書かれておらず、そのとおりですねえ・・・という感慨が残るという本でした。
 19世紀の終わりから20世紀は、ナントカ批評学派が乱立して、福音書のあちこちをつまみ食いして、次から次へといろいろなイエス像を提示していましたが、歴史家として史料を理にかなった扱いをして福音書を正確に読むならば、スタンダードなイエス理解に戻ってくるのだということが確認できたということになります。


2.様式史批評の前提のまちがいを指摘

 ボウカムは「資料」という章で、今もってドイツ系の聖書学・神学の世界では相当の影響力を持ち続けている「様式史批評form criticism」の前提の誤りを指摘しています。前提が間違えると途中経過も、結論もまちがいますから問題は深刻です。
 課題は福音書の本文がどんなふうにできあがったのかということです。様式史批評では、ヨーロッパの民話の形成過程をモデルとしました。ヨーロッパの民話の場合、名もない人々が、長年かかって、それぞれの共同体の必要などにあわせて、それぞれ足したり引いたりして民話をつくってきたそうです。
 様式史批評は福音書の形成もそういうものだと早合点して前提してしまいました。つまり、イエスの伝承は共同体(もろろもの地域教会)の名もない人々の伝承であり、イエスという歴史的人物の目撃者とは無関係だと考えました。だから福音書に書かれているのは、イエスが歴史的にどういう人であったかではなく、それぞれの共同体がイエスがどういう人だと足したり引いたりして信じたかにすぎない、ということになります。
 そもそものまちがいは、「ヨーロッパの民話形成過程」を福音書本文の形成過程のモデルにできると思いこんだことでした。前提が間違えば、あとはどんなに詳細に検討を加えようとすべて間違いです。
1.福音書の場合、民話形成の場合と違って、歴史上のイエスの目撃者たちは、口述される伝承が生まれてから(最初に彼らが証言してから)ずっとあと、つまり福音書が文章としてまとめられる頃まで生きていました。
2.しかも、その目撃者たちは、民話形成の場合と違って名もない人々ではなく、原始キリスト教運動のなかで有名で権威ある人々(使徒使徒に準じる人々)でしたから、諸地域教会がそれぞれ勝手に物語を改変することはありえなかったのです。かえって、口述された伝承をいかに正確に伝えるかに意が用いられました。

 福音書形成過程は、ヨーロッパでの民話の形成過程とはまったく違う背景があります。福音書のばあいは、民話ではなく、「口述された歴史」という特徴をもっていて、その観点から読まなければ正しく理解はできません。
 様式史批評はモデルを間違えたために、20世紀の福音書研究を誤導してしまったのです。

・・・以上のようなことが書かれていました。