苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

歴史に対する姿勢

10:10 彼ら(ペリシテ人)はサウルの武具を彼らの神々の宮に奉納し、彼の首をダゴンの宮にさらした。
10:11 全ヤベシュ・ギルアデが、ペリシテ人のサウルに対するしうちをことごとく聞いたとき、 10:12 勇士たちはみな、立ち上がり、サウルのなきがらとその息子たちのなきがらとを取り上げ、これをヤベシュに運んで、彼らの骨をヤベシュにある樫の木の下に葬り、七日間、断食した。

  10:13 このように、サウルは【主】に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。【主】のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、10:14 【主】に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。(1歴代)


 サウル王は戦場に倒れた。敵のペリシテ人は、にっくきサウルを辱めるためにその首を偶像の宮にさらした。その報せを受けて立ち上がったのは、ヤベシュ・ギルアデの人々だった。彼らはサウルを丁重に葬り、彼の死を悼んで一週間の断食をした。
 かつてサウルは、アモン人に脅かされていたヤベシュ・ギルアデの人々を救い出したことがあった。1サムエル記11章。そのサウルに対する恩義をヤベシュの人々はしっかりと覚えていて、サウルの死にあたって恩に報いたのだった。
「義理と人情 秤にかけりゃ 
 義理が重たい 男の世界 
 義理がすたればこの世は闇だ・・・・」

 このようにサウルにもいいところがあったということを、歴代誌記者は記している。しかし、「死者には鞭打たず」という情に流されるのでなく、もう一方でしっかりと、決してごまかすことなく、サウルの罪と神のさばきを記しているのが聖書の聖書たるゆえんである。
 こういう、功と罪の両方をきちんと書くということが、歴史家にとってとても大事なことではないだろうか。きのうは8月15日。そういうことを特に考えさせられる。