苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

預言者のともがらの死


   (ニッコウキスゲ




4:1預言者のともがらの、ひとりの妻がエリシャに呼ばわって言った、「あなたのしもべであるわたしの夫が死にました。ごぞんじのように、あなたのしもべは主を恐れる者でありましたが、今、債主がきて、わたしのふたりの子供を取って奴隷にしようとしているのです」。 4:2エリシャは彼女に言った、「あなたのために何をしましょうか。あなたの家にどんな物があるか、言いなさい」。彼女は言った、「一びんの油のほかは、はしための家に何もありません」。 4:3彼は言った、「ほかへ行って、隣の人々から器を借りなさい。あいた器を借りなさい。少しばかりではいけません。 4:4そして内にはいって、あなたの子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり、そのすべての器に油をついで、いっぱいになったとき、一つずつそれを取りのけておきなさい」。
 4:5彼女は彼を離れて去り、子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり、子供たちの持って来る器に油をついだ。 4:6油が満ちたとき、彼女は子供に「もっと器を持ってきなさい」と言ったが、子供が「器はもうありません」と言ったので、油はとまった。 4:7そこで彼女は神の人のところにきて告げたので、彼は言った、「行って、その油を売って負債を払いなさい。あなたと、あなたの子供たちはその残りで暮すことができます」。    列王記下4:1−7


1 預言者のともがらが死に、その遺族が路頭に迷いそうになるというこの記事の冒頭には、身につまされるものがある。「債務者がやってきた」とあるのを見ると、伝道者は家族に財産など残せないまでも、借金だけはしてはいけないなと思う。


2 あわれみ深い主はエリシャを用いて、主のみことばのために生涯をささげて世を去った預言者ののこした妻とその子どもたちが路頭に迷わないでよいようにしてくださった。これはありがたいこと。


3 主が与えようとする油は無制限である。だが、その油を受け止める器の分しか、受け取ることしかできなかったという。主はたくさん恵みを与えようとしていらっしゃるのだが、こちらにその恵みを受け取る信仰の器が小さなために受け取れないでいることがあるのだろうな。もったいないことをしているかな、と。