苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

取税人・遊女について

 「ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。」マタイ福音書21章31節

 福音書には、しばしば、主イエスが「取税人・罪人」あるいは「取税人・遊女」と食事をしたり、交流をもったりして、祭司・律法学者・パリサイ人・民の長老たちをいらだたせたことが出てくる。取税人については、ユダヤ人にとっては、金欲しさに敵であったローマ帝国の手先になりさがった守銭奴売国奴というふうに映ったということをものの本で読み、なるほどと理解したのだが、こういうことかとよくわかったのは、『はだしのゲン』で「はげたか」と呼ばれるABCCの手先となったおっさんのことを思い出した時だった。
 ABCCとは原爆傷害調査委員会(Atomic Bomb Casualty Commission)のことで、先の戦争後、原子爆弾による障害の実態を調査するために米国が広島に設けた機関である。米国は今後の核戦争に備えるためにデータを欲していたので、ABCCはあくまでも調査を目的としていて、治療を目的とはしていなかった。ABCCは日本人を相当の金で雇って、原爆被災者のサンプルを、生きていても死体でも、見つけてはABCCに送り込んだ。ゲンの母親もABCCに行けば治療してもらえると思って、出かけて行くのだが、なんの治療もしてもらえなかった。衰弱している者や死体をあさるさまを見て、ゲンは彼のことを「はげたか」と呼んだのだった。そのおっさんは、家族を養わねばならないという生活苦のなかで、米国のABCCの手先、「はげたか」に身を落としたのだった。彼の立場は、ローマ帝国の属州とされた時代のユダヤ人取税人に似たものであったと言えるのではないか。
 「遊女」については、しばらくよくわからなかった。というのは、性道徳の崩壊した現代社会において、女子高生たちが小遣いほしさにみだらなことをするという話を聞くからである。だが、福音書の時代の「遊女」とは、そんなものではない。ドストエフスキー罪と罰』に登場する敬虔なる娼婦ソーニャが、福音書の遊女とかさなる人物だろう。作者自身、それを意図して書いていると思われる。ソーニャは、のんだくれの父と気のふれた母親と崩壊寸前の家族を支えるために、ぎりぎりの選択として娼婦となっていた。娼婦となっていたが、彼女は神を畏れる女性だったという描き方をしている。かつて日本でも、貧困のきわみにある父母弟妹たちが飢え死にしないがために、泣く泣く女郎に売られて、苦界に陥ることになった娘たちが多くいた。
 主イエスは、彼らの苦境を理解せずにただ汚れた連中だと切って捨てていた宗教家たちに対して、憤りをもって「わたしはあわれみ(誠実)は好むが、いけにえは好まない」というホセア書6章6節のことばを引用されて、御自分が取税人・遊女にあわれみをかける理由を説明されたのだった。

   うちから徒歩二分ほどの渓谷