新改訳と口語訳・新共同訳・文語訳でかなり訳がちがうというか、逆さまのところをみつけた。サムエル記下13:39〜14:1である。
口語訳
13:37しかしアブサロムはのがれて、ゲシュルの王アミホデの子タルマイのもとに行った。ダビデは日々その子のために悲しんだ。 13:38アブサロムはのがれてゲシュルに行き、三年の間そこにいた。 13:39王は心に、アブサロムに会うことを、せつに望んだ。アムノンは死んでしまい、ダビデが彼のことはあきらめていたからである。
14:1ゼルヤの子ヨアブは王の心がアブサロムに向かっているのを知った。
新共同訳・文語訳は口語訳と趣旨は同じ。
新改訳第三版
13:37 アブシャロムは、ゲシュルの王アミフデの子タルマイのところに逃げた。ダビデは、いつまでもアムノンの死を嘆き悲しんでいた。 13:38 アブシャロムは、ゲシュルに逃げて行き、三年の間そこにいた。 13:39 ダビデ王はアブシャロムに会いに出ることはやめた。アムノンが死んだので、アムノンのために悔やんでいたからである。
14:1 ツェルヤの子ヨアブは、王がアブシャロムに敵意をいだいているのに気づいた。
多数の英訳聖書も口語訳と同じ。
ただ、この後の話の展開を見ると、王はアブシャロムに会うことを望んでいない。王はアブシャロムをエルサレムに呼び寄せながら会おうとしなかった。そういう流れをみると、新改訳のほうが話の流れはすっきりとしている。ウ〜ン。しかし、もしそんな配慮から「会いたい」を「会いたくない」とするとしたら、翻訳者の勇み足であろう。どういう事情があるのだろう?
文語・口語・新共同訳の場合は、ダビデの心理については、ちょっと複雑になる。アムノンを失ったから、単純に言えばアブシャロムに会いたい。けれど、14章でアブシャロムをエルサレムに呼び寄せてみると、死んだアムノンのことが思い出されて、アブシャロムの顔も見たくなくなってしまった、ということになる。
なお14:1で口語訳「王の心がアブサロムに向かっている」、新改訳「王がアブシャロムに敵意をいだいている」もずいぶんちがう。これはalという前置詞の解釈のしようのちがい。
ややこしい翻訳議論はさておき、とにかく問題は、いつまでも感情に引きずり回されて、事柄を複雑にし、アブシャロムからの憎悪を買ってしまったダビデである。私たちには感情がある。けれど、いつまでも感情に振り回されずに、なすべきことをなすことが大事。
愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。
伝道者の書3:8