昨日、長野福音教会で、信州宣教区の婦人会がもようされました。テーマは「放射能汚染時代に生きる〜放射線と病気と健康〜」で、講師は大杉至先生でした。講演の最初は、1コリント書3章22,23節の学びで、なるほど!とひざを打ちました。あまりにも、なるほど、だったので、今回同行できたのが私を含めてわずか4名だったので、今度の主日にこのメッセージを小海の教会のみなさんにもお伝えしたいと思いました。
「3:22 パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。 3:23 そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。」1コリント3:22,23
婦人会のあと、長野市から少し北にある小布施の北斎館に立ち寄ってから帰ろうということにしました。目当ては葛飾北斎の春の肉筆展と、栗おこわです。富岳百景といったものはどこかで見ていましたが、はじめて北斎がどんな絵師であったかを知って、非常に深い感銘を受けました。
北斎は、六歳のころから絵を描くことに興味を抱き、十代に勝川春章の門下となって浮世絵師として立ちおびただしい浮世絵を残すのですが、北斎は浮世絵師のわくに留まる人ではありませんでした。彼は、勝川を出てのちさまざまな他派の絵の技術に学ぶばかりか、中国画の技術、西洋画の技術をも学び、すべて己が血肉として彼独自の絵の世界をつくりあげていきます。晩年、幕府の歌舞音曲の禁令にともない芸術的営みも禁じられる状況のなか、北斎は彼の作品を理解する友人のいた信州小布施に旅行をし、この地で数々の肉筆画を描きました。浮世絵は版画として多数刷り上げてブロマイドとして用いられた商品ですが、肉筆画のひとつひとつは北斎にとっては芸術作品でした。北斎は、小布施では浮世絵だけでなく、山車の天井絵や、山車に載せる水滸伝の主人公の人形までも作っています。
この小布施の時代、北斎は自分の作品に「画狂老人卍」という号を付しています。九十歳で世を去るとき、「あと十年あれば・・・」と言い、またしばらくして「あと五年あれば、私は本物の画工となることができたのに」と言ったというのですから、すさまじい気迫です。
午前も午後も、昨日はじつにデラックスな一日でした。そうそう、お土産に買って帰った栗強飯も味・量ともにすばらしかった。